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気鋭の群像Young Japanese Hematologist

“国際的に活躍する女性”を目指し
臨床と研究の実績を積み米国留学へ(前編)

竹田玲奈(ダナ・ファーバーがん研究所 小児腫瘍分野)

この春、米国・ダナ・ファーバーがん研究所に留学した竹田玲奈氏は、中学時代に「国際的に活躍する女性になりたい」と心に決め、その第一歩として日本医科大学に入学し、在学中から留学を目指し短期留学を重ねた。初期研修後には血液内科の道に進み、臨床経験を積んだ上で、大学院時代には国際学会で研究成果を発表するなど、目標に向かって邁進してきた。そしてコロナ禍で予定より2年遅れたが、米国留学を実現した。将来は女性の医学研究者のキャリアアップのサポートもしていきたいと意欲はさらに増している。

ダナ・ファーバーがん研究所の竹田玲奈氏
ダナ・ファーバーがん研究所の竹田玲奈氏

 2022年3月から、米国・ダナ・ファーバーがん研究所小児腫瘍分野に留学しています。夫も同じ研究所の別部門に留学しました。当初は、2020年春に留学を予定し、住まいまで決まっていましたが、新型コロナウイルス感染症の世界的蔓延の影響で中止となりました。一時は留学を諦めかけたのですが、夢は捨てられずようやく実現しました。

生命の不思議さ、美しさに惹かれる
何でも経験させてくれた小児科医の父

 私は千葉県で生まれ育ち、小学6年のときに茨城県つくば市に転居しました。小さい頃から好奇心が旺盛で、特に動植物などの生物に興味がありました。ダルメシアンのぶち模様は個体ごとに異なるのに、パンダは必ず目の周りが黒いのはなぜか、梅は同じ木から紅・白・ピンクと違う色の花が咲くのはなぜかなど、生命の不思議さや美しさに惹かれ、いろいろな本を読みました。

 父は小児科医で、幼心の私にとっては小さな子どもの命を救うスーパーヒーローのような存在でした。ある時に読んだ本から、そんな超越的な存在と信じていた医師にも治せない難病が世の中にはあり、子どもでも病のために亡くなっていくことを知ってとてもショックを受けたのをよく覚えています。その衝撃がかえって医学や医師という職業に興味を持つきっかけにもなりました。そして小学校の高学年の頃には難病を治す医者になろうと思いました。

 その頃、つくば市の小学校に転校しました。研究学園都市という土地柄、同級生の親の多くが研究者で1~2割は外国籍の子どもという環境になり、世界をぐっと身近に感じるようになりました。一方で子供心に日本にいながらも日本人としてのアイデンティティのようなものを考えるきっかけにもなりました。国際難民高等弁務官として活躍する緒方貞子さんの姿に憧れ、将来は国際的に活躍し社会貢献できる女性になりたいと強く考えるようになりました。

 思い返せば、父は私がやりたいと思ったことは何でも経験させてくれ、一番の理解者として寄り添ってくれていたと思います。県立土浦第一高校から医学部へ進みたいと話したときは、それを認めた上で「医学部入学は通過点に過ぎない」と諭してくれましたが、特にどの大学がいいとか、ほかの道があるのではないかとは言いませんでした。そして2012年4月、日本医科大学に進学しました。

大学では勉学にも部活動にも全力投球
短期留学に加えチェルノブイリ医療支援も

 大学に入学しても、私の旺盛な好奇心は変わりありませんでした。難病に関わりたいとの思いを抱き続ける中で、「国際的に活躍するphysician scientistになる」という目標を持ちました。日本医大には6年生を対象に海外の提携大学との臨床留学制度がありました。学生のうちから海外の医療制度や医学教育に触れたいと思い、1年生時より留学説明会や報告会等に積極的に参加し、先輩方の貴重な体験談に刺激され、期待を膨らませていました。海外臨床留学制度を利用される先輩方は大変優秀で素晴らしい方ばかりでしたから、私もぜひその留学の機会を掴みとれるよう、そのために医学生生活何事に対しても全力で努力することを決意しました。

日本医大では弓道部に所属し、東医体では個人3位になりました。緊張感の張りつめた静寂の中、一矢射るのが好きでした。
日本医大では弓道部に所属し、東医体では個人3位になりました。緊張感の張りつめた静寂の中、一矢射るのが好きでした。

 MESS(Medical English Speaking Society)で留学生との国際交流を通じて国際感覚や英語力を磨き、世界中に医師の友人も多くできました。部活動も弓道部に所属して仲間と切磋琢磨し、参段となり、東日本医科学生総合体育大会(東医体)では個人3位となりました。弓道は立禅とも表されるように、日々の稽古によって精神力も鍛練されたように感じます。勉強も頑張り、卒業時には成績優秀者として銀杯をいただきました。

 臨床留学は、5年生のときはMESSの活動を通じてイタリア・ジェノバのガズリーニ小児病院に、6年生のときには大学の提携校との交換留学制度で米国・ワシントンDCのジョージ・ワシントン大学に行きました。よくイタリアを訪れると人生観が変わる、と耳にしますが、私の場合もまさにそうでした。イタリアのガズリーニ小児病院は欧州有数の小児病院ですが、そこでは女性医師の多さに驚きました。聞けば、育児中の世代や、よりベテランな世代の女性医師も多く、周囲もそれをごく自然なこととして受け止めているのを知り、さらに驚きました。また、私のイタリア滞在時期が8月であり、イタリアの風土らしく、ワーク・ライフバランスを上手に取り人生を謳歌しているスタッフが多かったのも印象に残っています。医師として働く、特に女性医師として第一線で働くことが、必ずしも何かを犠牲にしなければ成り立たないわけではないことを目撃し、とても勇気づけられた大切な体験となりました。

医学部5年生の夏、イタリアのジェノバへ臨床留学しました。休日には他国からの留学生たちと小旅行へ行きました。
医学部5年生の夏、イタリアのジェノバへ臨床留学しました。休日には他国からの留学生たちと小旅行へ行きました。

 臨床留学ではありませんが、5年生のときにベラルーシにも行きました。これは内分泌外科教授(当時)の清水一雄先生が継続してきた、チェルノブイリ原発事故で被曝した人たちに対する甲状腺検査や手術などの医療支援活動に同行したものです。施設案内をしていただいたベラルーシの女性医師教授の姿や日本とは異なる教育制度に感心しました。ベラルーシでは医師再教育システムが国として整備されており、出産・育児などで、一度臨床から離れた女性医師の復帰の支援も担っていることを知りました。医療支援する側の立場で参加したため、日本の方が医療先進国であると高を括っていた自身を省み、「日本にもこうした仕組みがあれば、女性医師も長く働き続けられる」と思い、女性医師のキャリア形成支援のための制度や環境に興味を持つ契機にもなりました。

 私はそれまで、医師という仕事と家庭を両立させるにはどうしたらよいかという視点でばかり考えていましたが、海外でのこうした女性医師の生き方を見て、私は自分で心のブレーキをかけて限界をつくっていたことに気付きました。そして、まずは女性医師としてキャリアアップに挑戦することが大切だと思うようになりました。

 卒業後は、大学院進学を視野に入れ、東京大学医学部附属病院で初期研修を受けました。2年目には血液病理を学びたくて、病理部で4カ月研修をしました。のちに血液学を専門に選んだきっかけは、学生時の臨床実習や初期研修で血液内科の診療に携わったことでした。血液疾患には難病が多いこと、血液内科では患者さんが受診したその日に、本人にとっては青天の霹靂とも言える診断がくだされ、すぐに入院という人も少なくありません。治療を受ける患者さんも壮絶な闘いをしています。そうした経験から、「移植や多剤併用化学療法よりも患者さんの負担を軽減できる治療法があるのではないか」と血液疾患に強く興味を抱きました。入院期間が長期に及ぶ中で、本人や家族と向き合い寄り添いながら一緒に治していくという診療スタイルも私には合っていると思いました。

 病理部での研修は、もともと2カ月間の予定でしたが、学び足りず4カ月に延ばしてもらいました。臨床病理や病理解剖の基礎を学ぶことが出来、この経験は、その後の臨床や研究にも大いに役立っていると感じています。各臓器の専門病理の先生方に1病理検体毎、そして1スライド毎に大変丁寧にご指導いただき、東大病理部での4カ月間はとても充実していました。その後も、都内で開催されるリンパ腫などの血液病理勉強会などには毎回楽しみに参加していました。さらに港区白金台にある東京大学医科学研究所附属病院の血液内科で2カ月間の研修する機会がありました。患者さん一人ひとりに対し、主治医、看護師、MSW、栄養士、薬剤師、他科の医師らがチームとなり、一丸となって非常に丁寧で真心のこもった医療を提供していることを体感しました。そのチーム力に強い魅力を感じ、血液専門研修は医科研病院で受けようと決めました。

〈後編では、医科研での研究生活や将来の夢についてお話しいただきました。〉