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気鋭の群像Young Japanese Hematologist

神戸発、東京・NY経由、神戸行き
臨床好きな若きPIの奮闘(前編)

井上大地(神戸医療産業都市推進機構 先端医療研究センター 血液・腫瘍研究部 部長)

血液内科を中心に5年間の臨床経験を積み、その後、研究者として骨髄異形成症候群(MDS)におけるASXL1変異に関する研究の黎明期を支え、米国留学中にはスプライシングなどの転写後制御異常によるがん発症のメカニズム解明などの成果を上げてきた井上大地氏。米国から帰国後の2019年に神戸医療産業都市推進機構先端医療研究センターに新たなラボを立ち上げた。一つ所にとどまらず、新しい環境で新たなテーマに取り組んできた井上氏は、今度はPIとしてチーム一人ひとりの力を伸ばすことに力を注いでいる。

神戸医療産業都市推進機構の井上大地氏
神戸医療産業都市推進機構の井上大地氏

 2019年3月に、多くの方に支えていただき、神戸医療産業都市推進機構の先端医療研究センターに新しいラボを開設しました。機器も人も金もないゼロからのスタートでしたが、2年が経ち13人のラボになりました。

 私は京都の洛星高校を経て2005年に京都大学を卒業し、神戸市立医療センター中央市民病院にて、2年間の初期研修を含めて2010年まで5年間勤務しました。同年4月から東京大学大学院に進学して研究の道に進みました。4年間の博士課程終了後、14年4月から東大医科学研究所の助教として1年半過ごしたのち、15年10月に米国・メモリアルスローンケタリングがん研究センターに留学しました。そして約3年半の米国での研究生活を終えて、2019年に帰国し住み慣れた大好きな街で暮らしています。

 こうして振り返ると、4〜5年ごとに自分の居場所を変えて、新しい領域で新しい研究テーマを探し続けてきたのかなと思います。どこでも月日が経つと、その領域での成果が上がる一方で、仕事に惰性が出てきて、ややもすると独りよがりな考え方に陥ってきます。そのような自分を変えるために意識的にリスタートしてきたように感じています。

ラボのメンバーと
ラボのメンバーと

後期研修で血液内科の良き指導者に出会う
東大医科研で研究者としての基本を学ぶ

 大学時代から研究室に出入りしていた、というエピソードは全くなく、京大時代はいかにサボって遊ぶかばかり考えており、本庶佑先生(現・理事長)の授業さえほとんど出ずに終わってしまいました。当時の京大医学部の教員は紛れもなく世界レベルだったので馬鹿なことをしたもんだと後悔しています。でも、研究の厳しさを早く知りすぎなくて良かったのかもしれません。USMLEのSTEP1を持っていたので、漠然とゆくゆくは海外で臨床したいなと考えトロントの病院に見学に行ったこともありました。そんな私ですが、全国からモチベーションの高い若者が集う神戸市立医療センター中央市民病院で2年間の初期研修、引き続き同院免疫血液内科で後期研修を受けることができ社会人としての基礎、根性を叩き直していただきました。ここは救急日本一の病院ですから医者として「かわいがり」をたっぷり味わうことになりました。同期も先輩も抜群に優秀な方ばかりで皆ギラギラしていて、昼夜を問わず症例を奪い合うように切磋琢磨できました。周囲の意識が異常に高くOB・OGの大半が海外に進み、ニューヨークで同門会を開いたぐらいでした。血液内科に進んだのは、他の腫瘍と違って内科医が全ての責任を持って治癒まで対応する点に魅力を感じたからです。当時、血液内科には高橋隆幸先生がおられました。臨床医として、一人の指導者としても心より尊敬する先生です。市中病院に珍しく、遺伝子解析室や細胞培養室がありフローサイトメトリーも自前で解析していました。患者さんを診療し自分が取った骨髄細胞やリンパ腫細胞について指導を受けながら解析するという日々を送りました。ラボまで併設され、芽球性形質細胞様樹状細胞腫瘍(BPDCN)が疑われる白血病患者の細胞を樹状細胞に分化させる系で起源を確かめて論文を書いたこともありました。高橋先生からは、「どんなに忙しくとも何事も3回やれば習慣になる」と常々言われ、小さな英語論文を時間をかけて3報書いたら、まさに論文を書く抵抗感がなくなりました。この時の臨床研究や症例報告の積み重ねが今の自分を形作る大きな力になったと思います。当時の先輩には今も国内外で活躍されている戸上勝仁先生、藤田晴之先生、永井雄也先生、森美奈子先生がいらして、公私ともに大変お世話になりました。

2010年 高橋隆幸先生と(神戸を離れる送別会の席で。29歳の春)
2010年 高橋隆幸先生と(神戸を離れる送別会の席で。29歳の春)

 当時の血液内科には多い時には100人を超える患者が入院し、医師や看護師は多忙を極めました。私も時には20人を超える患者を受け持ち、そこに救急・内科・ICU当直が入るものですから週に数回は家に帰らない生活を文字通り楽しんでいました。当時はこれほど面白い仕事はない、天職を得たと感じていましたが、医師4年目頃になると、ただ診断基準やプロトコルに沿って惰性的に診療している自分に気が付き、若手医師が陥りがちな万能感に支配されている自分に嫌気が差してくることもありました。このままでは次の自分のブレークスルーはないと考えるようになり、天職とも思えた臨床は大好きだけれど博士課程進学を決心しました。

 研究テーマは、高齢の患者さんに多く、治療に難渋した骨髄異形成症候群(MDS)にしようと考えました。当時はエピジェネティクスに関する研究が盛んになり始めた時で、そのような観点からMDSに取り組みたいと考えるようになりました。MDSの研究を精力的に進めていたのが、東大医科研の北村俊雄先生です。北村先生も神戸のご出身で、研究室の自由な雰囲気に憧れ、神戸時代の先輩が2名(渡辺(大河内)直子先生、戸上勝仁先生)進学されていたことも後押しとなりました。この決断の決め手となったことがもう一つあります。「冬の喝采(黒木亮)」という箱根駅伝のノンフィクションに対する感想が北村先生ととてもフィットした点です。些細なことですが、若い時から走ることに情熱を燃やしてきた自分にとって、一つの本との出会いが人生を変えていくことを実感した瞬間でした。

2013年夏 北村俊雄先生と(ウィーンでのISEH(国際実験血液学会)でGreg Johnson Award受賞)
2013年夏 北村俊雄先生と(ウィーンでのISEH(国際実験血液学会)でGreg Johnson Award受賞)

 とはいえ、すぐにうまくいくはずもなく研究者としてのキャリア初期は想像以上に苦しみました。皆が通る道だと思いますが、5年間臨床医を務めて自信満々でやってきた「先生」が、ラボでは何の使い物にもならない最下層からのスタートです。モデルマウスの作製や細胞株の実験一つをとっても、基本的手技にも手間取りました。集めたデータの解析手法は、丁稚になって人から見聞きして論文を読んで身に付けました。こういった苦労や下積みというものが基礎研究の修業には欠かせなかったのかな、と今は思えます。またラッキーなことに大学院時代に北村先生が新学術領域の中心メンバーに選ばれたことで、様々なシンポジウムに顔を出してお手伝いすることができました。何も発表するデータなど無かった頃ですが、この時の人脈が後々に大きく生きていると今になって思います。

ASHでASXL1変異とMDSの関連を報告
AMLへの形質転換の鍵となる機構も解明

 東大医科研での研究テーマはMDSの発症メカニズムの探索です。当時、遺伝子の網羅的解析が進み始めており、TET2EZH2ASXL1などエピジェネティクス関連遺伝子の存在が明らかになっていました。私はこれらの中で誰も知らないASXL1にこそ取り組んでみたいと申し出て、MDS発症につながる何かを得ようともがきました。

 ASXL1変異はMDS患者さんの20%以上に認められる遺伝子変異で、このASXL1変異を導入したマウス骨髄細胞をマウスに移植したところ、移植マウスが典型的なMDSを発症し、一部のマウスでは白血病に移行することが分かりました。さらにMDS発症の分子機序の解明を進めた結果、野生型ASXL1EZH2を含むポリコーム複合体(PRC2)機能をサポートするのに対し、ASXL1変異はPRC2の機能を抑制して、がん遺伝子や腫瘍関連microRNAの脱抑制を来たし、MDS発症につながることも明らかにしました。これらの成果は2013年の第55回米国血液学会(ASH)で口演し、私の “メジャー国際学会デビュー”となりました。米国は当時大寒波でダラスで一晩足止めを食らうことになりましたが、災い転じて、ご一緒になった坂田麻実子先生(筑波大学)といろんな議論ができてとても楽しかったのを覚えています。

 ただ、これらの研究は順調に進んだわけではありません。駆け出しの頃は人に見せられるようなデータもなく、教授からも相手にされず盛大に2年間を棒に振りました。ですが、その中で「ASXL1について世界で一番詳しい人間になる」との思いで、常に思い巡らせ試行錯誤を繰り返してきた結果がマグマのように溜まり、3年目に入る正月からデータが一気に噴き出しました。その頃になって、ようやく教授にも相手にしていただけるようになりました。

 この間、ASXL1のユビキチン化による翻訳後制御や、変異体発現のメカニズムについても精力的に取り組みました。例えば、ASXL1変異は、最終エクソンの5’側のナンセンス変異か早期終止コドンを伴うフレームシフト変異でありながら当時は機能喪失型と盲目的に信じられていました。「そんなはずはない」と実験を重ね、C末欠失型のASXL1は確かに検出されること、N末端側に強力なユビキチン化部位が存在し速やかに分解されること、などを見出し同変異は機能獲得型の変異ではないかという結論に至りました。その後後輩を含めていくつかのグループからこの知見を支持していただき、同分野の研究の流れを変える成果になったかと嬉しく感じています。

 その他にもSETBP1変異という今も意義が十分には解明されていない遺伝子変異がASXL1変異を伴うMDSクローンにおいてどのような役割を果たしているのか、こっそりと実験を進めていました。これは次世代シーケンサーによるMDSおよびAML患者の解析から得られた知見を出発点としていますが、両変異を発現した造血幹細胞を移植したモデルではMDSではなくAMLを惹起することや、そのメカニズムの一端を見つけることができました。この研究結果は、一発アクセプトとなりチームみんなで喜んだことが印象に残っています。この成果はASHやハワイ島での日米血液セミナーで発表しましたが、旅先の空港からご一緒した石川文彦先生(理研)にはその後も公私ともに沢山のサポートをいただいています。このように人との偶発的な出会いが自分の貴重な財産となっていることを考えると、今のオンライン学会の限界もまた感じています。

米国留学前 南アルプス稜線にて
米国留学前 南アルプス稜線にて

 北村研で何とか博士課程を修了した後は、そのまま同研究室の特任助教となりました。研究はますます発展していきましたが、同じ環境で研究を続けていくよりは挑戦を求めるようになり、米国・メモリアルスローンケタリングがん研究センターの若手スターOmar Abdel-Wahab先生のもとで、新しいテーマで研究を始めようと考え、2015年10月に渡米しました。特に何も考えずその時の勢いで決めた印象が強いですが、Omar先生という奇特な能力を持った方と一緒に仕事ができたことは、かけがえのない宝物となっています。

 研究というのは、チームで行なうものですが、一方でひとりで淡々と走ることに似ています。自分にとって走ることが生活の一部であり、研究と走ることが両輪となる生活を送っていました。特に山岳エリアを走ることに時として研究以上の情熱を注ぎ、東大医科研での実験後、日付を跨いで皇居や神宮外苑でトレーニングを続け、週末には始発で箱根や奥多摩へと遠征に出かける生活でした。人に誇れる能力や才能がなかろうともコツコツ積み重ねた結果、渡米前月の白馬での国際レースで競技人生初めて優勝できたことは、努力で一点突破する成功体験を与えてくれました。渡米3日前にもウルトラトレイルを戦い日本で思い残すことはない、という気持ちで海を渡ったように覚えています。猛烈に実験しながら猛烈に走る、東大時代は「青春」そのものでした。

〈後編では、米国留学中の研究や生活について、また、PIとしてラボやメンバーへの想い、今後の展望などについて語っていただきました。〉