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気鋭の群像Young Japanese Hematologist

米国に研究拠点を築いた原動力は粘り強く諦めない心。
小児科を出発点に造血幹細胞の起源を追いかける(前編)

吉本桃子(テキサス大学ヒューストン マックガヴァン医学校 幹細胞・再生医学研究センター アソシエイトプロフェッサー)

テキサス大学ヒューストン マックガヴァン医学校 幹細胞・再生医学研究センターの吉本桃子氏
テキサス大学ヒューストン マックガヴァン医学校 幹細胞・再生医学研究センターの吉本桃子氏

三重大学卒業後、小児科医として医学の道を進み始め、やがて造血幹細胞への興味を深め、ついに米国に自分の研究拠点を持つに至ったテキサス大学医学部ヒューストン校の吉本桃子氏。神戸、東京、京都と修業の場を移しながら、着実に研究成果を重ね、米国に渡った吉本氏をつき動かした力は“惚れっぽさ”であり、しつこく諦めない“粘り強さ”だった。臨床医から研究者への道のりを綴ってもらった。

 子供は嘘をつかない。いや、もちろん嘘はつくだろうけど、本質的に、嘘をつかないと思っている。だから、子供を相手にするときは、大人は全力で真面目に向き合わないといけない、と思った。素のままの自分で、子供と向き合い続けること、それはすなわち、自分と向き合い続けることでもある。これが私が小児科を選んだ理由である。

 もう一つの理由は、三重大学小児科が小児血液、腫瘍をメインとしていたことである。私は「幹細胞」というものに、興味を抱いていた。すべての細胞に分化できる細胞ってすごいじゃない、と。当時、簡単に「幹細胞」を扱えるとしたら、産婦人科に行って受精卵を扱うか、血液の研究で造血幹細胞を扱うのが一番手頃だと思ったのである。

三重大小児科入局と同時に神戸で研修
造血幹細胞への恋に落ち、東大医科研へ

 当時、小児科教授だった櫻井実先生は懐の深い方だった。学生時代、先生のお宅で奥様の手料理をご馳走いただいたことも大きい。私が「神戸中央市民病院(現・神戸市立医療センター中央市民病院)の試験に受かったので、研修に行きたいのですが、そのあと三重大小児科に入れてもらえますか?」と尋ねたところ、「あそこはええ病院やから、行って勉強してこい。でも入局の年度は大事やからな、今年から入局で名前を入れといたる」とおっしゃってくださった。そういうわけで、三重大小児科に入局し、神戸中央市民病院の小児科での研修が始まった。

神戸中央市民病院小児科の研修医時代に、NICUで担当した600gの超未熟児のツインベビーたち。こんなに大きくなりました。
神戸中央市民病院小児科の研修医時代に、NICUで担当した600gの超未熟児のツインベビーたち。こんなに大きくなりました。

 神戸での研修医生活は大変だったけれども、症例が多く、充実していた。ある日のこと、「神戸血液研究会」という小さな勉強会で、当時東京大学医科学研究所の中畑龍俊教授(現・京都大学iPS細胞研究所)のセミナーがあった。中畑先生のお話は面白かった。造血幹細胞に自分が興味を持っていたことを思い出した。まさに「恋に落ちた」と言っていい。造血幹細胞にも、中畑先生にも(笑)。

神戸中央市民病院でのクリスマスイベントで、にわかサンタさん、手作りのトナカイと一緒に
神戸中央市民病院でのクリスマスイベントで、にわかサンタさん、手作りのトナカイと一緒に

 私の仕事のポリシーとして、「ボスに惚れる」は第一重要事項である。性別関係なく、人間として。櫻井教授にも惚れていたし、当時の小児科血液グループのオーベンの筒井先生と桐山先生にも惚れていた。要するに惚れっぽいのである。しかし、このボスだからこそついていける!と思えないと仕事も頑張れない。それは男性も同じではないだろうか。

 さて、私はセミナー後の懇親会の席で中畑先生に歩み寄り、「先生の今日のお話、とても面白かったです。いつか先生の研究室で、私も研究したいです」と申し上げた。すると後日、中畑先生から東大大学院の願書が送られてきたのである。これは東大に行かないでおられようか。

 無事、東大大学院に合格したが、三重大の櫻井教授には怒られた。むちゃくちゃ怒られた。「お前、三重大から出してやってんのに、なんで帰ってこないんや」と。これには中畑先生も困り果て、妥協案として、1年間、東大大学院を休学し、三重大の小児科に戻ることになった。さてさて、この三重大小児科の1年間は、私にとってまた大きな宝となった。豊富な小児血液、腫瘍の症例、移植経験もさることながら、夫を得たのである。彼とは入籍だけして、その次の年から私は東京へ、夫は三重に残っての、遠距離結婚が始まったのであった。1999年のことである。

医科研に落ち着く間もなく京大へ
西川伸一先生のラボで半年間学ぶ

 東大医科研の中畑龍俊研究室で与えられたテーマは、マウスES細胞から造血幹細胞を作り出すことであった。今思えば、なんとも壮大なテーマを大学院生に与えたものである。しかし、当時はAGMS-3というマジカルストローマを樹立しており、“stemness”を与える環境があるのではないかと、研究室が湧いていたのであった。

 ES細胞を血液へ分化させるには、胎生期でのことを知らないといけないに違いない、と直感的に思った。タイムリーに、胎生期造血の研究が盛んだった時期である。細胞工学の胎生期造血の特集号を読み、それから引用文献を読み漁った。当時、京都大学におられた西川伸一教授(のち理化学研究所を経て、現・ALL ABOUT Science Japan代表)の論文に出合った。マウス胎児やES細胞から血管内皮細胞を取り出し、OP9というストローマと共培養することでB細胞へと分化させていた。なんと面白いことをしているのだろう、と思った。

 そして、その矢先、なんと中畑先生が京大小児科の教授になることが決まったのである。私は東京に出てきてまだ1カ月しか経っていないのに! 京大でのラボの立ち上げに先立ち、「西川先生のところでES細胞とマウス胎児の培養を勉強しに行かせて欲しい」とお願いした。あの論文が出ているラボで勉強してみたい、とまた惚れっぽい気持ちにつき動かされたのである。

 当時の西川研はこれまた面白いところであった。そもそも西川伸一先生が面白い。頭の回転が速すぎて、思考の最初と最後しか言わないので、何を言っているのか理解するのが難しい。面白い知見に出合うと、「知っとるか、おもろいで!」とラボ中で話し回られるのである。

 西川先生に言われて残っていること。

 「人に取られる研究ってのはそれだけのことしかないんや」
 「論文っていうのは、自分のクエスチョンに答えが出た時に書くもんなんや」