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気鋭の群像Young Japanese Hematologist

移植のダイナミックさに魅かれて血液内科医に
その後、リンパ腫の面白さに気づく(前編)

藤本亜弓(島根大学 血液・腫瘍内科学 客員研究員、がん研究会 がん研究所 分子標的病理プロジェクト 研究生)

大学生時代に造血幹細胞移植で白血病の若い患者が助かる様子を目の当たりにし、血液内科医の道に進んだ藤本亜弓氏は、血液内科の後期研修医となった後に、データベースを用いた悪性リンパ腫に関する臨床研究に携わった。その後、統計解析手法を学び、現在はリンパ腫の病理診断を学びながら、新たな研究に取り組んでいる。

藤本亜弓氏
島根大学の藤本亜弓氏

 昨年、“Improving Prognosis of Aggressive Natural Killer Cell Leukemia in Japan”というタイトルで、わが国のアグレッシブNK細胞白血病(ANKL)に関する多施設共同後方視的研究(ANKL22)の結果を米国血液学会(ASH2022)で発表しました。ANKLの予後は、過去の研究と比較してやや改善したものの依然不良であること、SMILE療法が最も奏効割合が高く長期生存が得られる治療法であること、化学療法で奏効が得られれば速やかに同種造血幹細胞移植を実施することが望ましいことなどを報告しました。

ANKLの腫瘍細胞
ANKLの腫瘍細胞

 ANKLは稀な疾患ですので、ANKL22では幅広く全国の血液内科・小児血液内科のある約350施設に調査協力を依頼し、そのうち約6割の施設から調査結果をご返却いただきました。最終的に、ANKLの診療歴があり診療報告書(CRF)をご返却いただけた72施設の121人の患者データの詳細を検討し、ANKLと考えられた103人のデータを現在まとめています。こうした研究が実施できたのは、これまでご協力いただきました先生方のおかげです。日常診療や研究等で大変お忙しい中、お力添えをいただきました先生方に、この場をお借りして改めて心より御礼を申し上げます。

 私は、2013年に大阪市立大学医学部を卒業後、初期研修を神戸市立医療センター中央市民病院で受け、その後は同院の血液内科で後期研修を実施したのち、2018年から島根大学の血液内科へ異動しました。その後、計4年間島根大学で勤務し、2022年4月からはがん研究会がん研究所分子標的病理プロジェクトに研究生として所属し、大学院生として現在病理を中心に勉強させていただいております。

2022年ASH(ニューオーリンズ)
2022年ASH(ニューオーリンズ)

医学部入学時は外科医に憧れ
学生時代に造血幹細胞移植の魅力に惹かれる

 私が医学に興味を持ったのは、幼い頃から同居していた祖母が乳がんを患っており、実家近くの大学病院に見舞いに通っていたことが一つのきっかけだったと思います。病院の独特の匂いが昔から苦手で、白衣を着た医師が廊下を歩く姿は威圧的で恐ろしく、病院は嫌いな場所でした。祖母は私が小学2年生の時に亡くなりました。当時は病状が悪化しているということは直接患者本人には言わないという風潮がありました。そのため、亡くなる直前に大学病院から近くの小規模の病院へ転院となりましたが、その理由を祖母には言わないように、と母から何度も言い聞かされていたことを今でも覚えています。最後まで患者の希望を失わせたくないという家族の思いと、真実を一人知らされないものの現状を悟っていた祖母の気持ちの狭間で、何と言葉をかけてよいのか分かりませんでした。この経験は、全ての人間が経験することとなる“人生の最期”というものを、患者はどう迎え、家族はどう送り出すべきか、について考える大きなきっかけになりました。その後は、自分も必ず終わりがくる、ということを意識して生きるようになりました。

祖父母と
祖父母と

 祖母は元々自宅で洋裁の先生をしていたこともあり、その影響で小学生の頃から手先を使って何かを細工するという工程が好きだった私は、テレビドラマの影響もあってか、自分の手で患者さんを救える外科医に何となく憧れを抱いていました。医学部を目指そうと決めたのは高校生の時です。“がんを自分の手で治したい”という憧れをまだ持ち続けていました。家族、親戚に医療関係者は一人もおらず、決して裕福な家ではなかったので、現役で実家から通える国公立大学という制限があり、最終的に大阪市立大学(現:大阪公立大学)に進学しました。中学から大学までの全ての学費は祖父が支えてくれました。祖父は戦時下に生まれ、養子として育てられ、中学卒業後は働くことを余儀なくされました。“わしは勉強が好きで、本当はもっと勉強したかったけど、できなかったんや。だからお前は勉強したいのなら、したいだけしなさい。”というのが祖父の口癖で、有難くも勉学に関係するものは全て支援してくれました。医学部に進学した時も祖父が一番喜んでくれたように思います。

 臨床実習を開始した際は特に食道外科に興味を持ち、そのダイナミックなオペの魅力にとても惹かれていました。実際の手術で皮膚切開や介助をさせていただき、とても楽しかったことを今でも覚えています(今でも手術室の中を覗くと、良いなぁ、とやっぱり思います)。しかし、週3回の12時間オペの日々に、外科医としてやっていく体力面での厳しさを実感しました。好きや憧れだけで仕事を選ぶべきではない、一生興味を持ち続けられることを仕事にしたいと思い、外科一直線だったところを少し立ち止まり、視野を広げることとしました。

 とはいえ、当初は外科とは対極の血液内科を自分が専門にすることになるとは夢にも思っていませんでした。臨床実習では、教科書とは全く異なる“暗号”だらけの異次元空間、主治医がカンファレンスで真剣討論する真面目な空気、暗く重苦しい雰囲気の無菌室、治療で辛そうな患者さん達…。血液内科という科の第一印象は決して良いとは言えませんでしたが、患者さん達を全力で支える先生達の真剣さと熱い心に惹かれました。かつては不治の病であった白血病を患った若い患者さん達を造血幹細胞移植で救うことができるということから、手術ではなく化学療法という武器を操ることができれば自分の手で患者さんを治すことができると気づき、血液内科という科に魅力を感じました。出身大学の特色から、当時造血幹細胞移植に最も興味を持っていたため、大学6年生時に、当時自分のロールモデルとさせていただいていた林良樹先生(現:大阪市立総合医療センター)を訪ね、国立がん研究センター中央病院の造血幹細胞移植科へ見学に行き、「白血病を移植で治す血液内科医になる」と心に決めました。

 初期研修では救急医療が盛んな神戸市立医療センター中央市民病院を第一に希望しました。同院は関西圏で当時もっとも造血幹細胞移植件数が多い病院であったことも理由の一つでした。採用試験の難易度が異常に高いという事前情報があったのですが、絶対にここで働きたいという強い意思があり、6年生の夏休みに内科認定医試験の過去問を主軸に猛勉強し、2013年4月に同院の研修医となりました。

市立医療センター中央市民病院の救急外来にて、初期研修修了時に同期(医科・歯科)と
神戸市立医療センター中央市民病院の救急外来にて、初期研修修了時に同期(医科・歯科)と

初期研修は優秀な同期と超ハードな日々を過ごす
後期研修も神戸市立医療センター中央市民病院の血液内科で

 神戸市立医療センター中央市民病院では、医科の研修医は16人、そのうち女子は自分を含め2人で、やる気でみなぎった同期ばかりでした。最初の研修先は救急部でした。同院の救急部は1次〜3次救急まで全ての救急患者を一切断らないという体制で年間約1万台の救急車を受け入れており、厚生労働省の評価で毎年全国第1位を取得している部門でした。8月までの最初の5カ月間、精神的にも体力的にも厳しい日々でしたが、有難くも厳しくご指導いただき、優秀な同期の存在に刺激を受けていました。瞬時の状況判断力、諦めない精神力、患者さんファーストの心遣いなど、当時ご指導いただいたことは現在の自分自身のスタイルの基礎を築いてもらえたと思います。最終的に初期研修2年間のうち、救急・集中治療部には計9カ月もお世話になり、今でもとても感謝しています。

 初期研修の際に血液内科は1カ月しか回らなかったので、やや気持ちは救急・集中治療部へ揺れましたが、初志貫徹と思い、その後3年間は同院の血液内科で勤務しました。念願だった移植患者さんの主治医も多数務めさせていただきました。様々な困難にも直面しましたが、退院時に患者さんを笑顔で送り出す瞬間が何よりも嬉しく、天職だと思いました。残念ながら上手くいかない患者さんもおられましたが、祖母の時よりは良い最期を迎えてほしいと思い、個々の患者さんに向き合いながらベストな最期の形を模索し、家族同然の思いで送り出していました。遺族の方々からいただく言葉は何よりも自分の励みになり、忘れられない思い出は沢山あります。移植医療は本当にドラマの一部のようで、とてもやりがいのある仕事だと改めて実感しました。後期研修後は移植医になるべく専門病院での研鑽を積む予定にしていたのですが、その後、予想もしなかった道に進むこととなりました。

先端医療センター(現:神戸市立医療センター中央市民病院)の病棟にて血液内科の先生方と

〈後編では、PTLDの研究をきっかけに島根大学へ異動し、リンパ腫研究に惹き込まれていった日々について語っていただきました。〉