血液専門医と医療関係者のための情報サイト「ヘマトパセオ」

気鋭の群像Young Japanese Hematologist

米国でphysician scientistとして独立する
治療関連白血病とクローン性造血を研究テーマに(前編)

高橋康一(MDアンダーソンがんセンター 白血病科・ゲノム医療科 アシスタント・プロフェッサー)

米国・MDアンダーソンがんセンターの高橋康一氏
米国・MDアンダーソンがんセンターの高橋康一氏

大学卒業後8年目の夏に米国・MDアンダーソンがんセンターの白血病科・ゲノム医療科のファカルティとなり、ラボを構えている高橋康一氏。Physician scientistだからこそできる臨床と研究の双方から得た発見や経験をベースに、治療関連白血病の克服とクローン性造血のメカニズムの解明という、2つの大きな研究テーマに取り組んでいる。

 2006年に新潟大学医学部を卒業、初期研修を虎の門病院で受けた後、2008年に渡米し、ニューヨークのベスイスラエル病院で一般内科研修を3年間受け、その後、テキサスのMDアンダーソンがんセンターの血液・腫瘍内科フェローとして3年間の後期研修を受けました。3年間の研修を終え、2014年に白血病科・ゲノム医療科のアシスタント・プロフェッサーとして、小さなラボを持ちました。スタッフ6人の“高橋商店”ですが、治療関連の骨髄異形成症候群(MDS)/急性骨髄性白血病(AML)の克服を目指した研究と、クローン性造血のメカニズムの解明という2つのテーマに挑んでいます。

「新潟の外に出たい」といろいろ挑戦するも
小学校から大学まで新潟で過ごすことに

 私の父親は消化器内科医で、肝臓を専門としていました。自分が医師になることに対する精神的なハードルは低かったと思います。ただ、私は建築物が好きで、高校2年生までは建築家になりたいと思っていました。ところが、高校3年になる頃に、人間はどうやってものを考えているのか、人と人はどう関係性を持つのかなど、脳の働きに興味が湧き、大学では脳の研究をしたいと考え、医学部を目指すことにしました。

 私は1981年に新潟市で生まれて以来、小学校、中学校、高校と新潟市内、しかもいずれも自宅から1km以内の学校に通っていました。何とか自宅を離れ、新潟の外に出たいと思い、中学3年のときには東京の高校も受験しましたが、合格できず、地元の県立新潟高校に進みました。そして、大学こそ県外へと思い、前期では県外の医学部を受験しましたがあえなく不合格となり、後期試験で新潟大学に合格、入学しました。

 新潟の外には出られませんでしたが、とても楽しい学生生活を送りました。小学校から高校まで野球を続け、キャッチャーをしていました。大学では部活はやるまいと考えていたのですが、野球部の勧誘に負けてつい入部してしまいました。ポジションも同じキャッチャーです。ただ、それまでと違ったのは、やらされている感じがなく、心底野球を楽しめたことでした。

 新潟大には脳研究所があり、私はそこで記憶や思考など脳の研究をしたいと考えていました。入学して、早速1年生の夏から脳研究所のシステム脳生理学分野の当時助教でおられた隠木達也先生のラボで研究のお手伝いをさせていただきました。それもあって、大学4年の基礎実習では海外に行く機会に恵まれ、私はマサチューセッツ工科大学の林康紀先生(現・京都大学)のラボで2カ月間、脳について学びました。

 そして脳の研究をするなら米国で、と思うようになりました。私が小学2〜4年生のときに、父親が米国・ニューヨークに留学し、家族とともに米国で暮らした経験があるので、米国や英語への心理的ハードルも高くなく、大学5年になって、米国で医師として研究するための勉強を始めました。この点は、両親にとても感謝しています。

MDアンダーソンがんセンターで、外来チーム(Physician Assistant, Scheduler, Nurse Practitioner)に誕生日を祝ってもらいました。
MDアンダーソンがんセンターで、外来チーム(Physician Assistant, Scheduler, Nurse Practitioner)に誕生日を祝ってもらいました。

医学部時代にphysician scientistの存在を知る
虎の門病院での初期研修で血液内科に針路をとる

 脳科学の研究者になるというキャリアプランに変化が現れたのは、脳研究所の教授だった中田力先生と出会ってからです。中田先生は、米国・カリフォルニア大学で20年以上にわたり脳神経学の臨床医として活躍し、同時にラボを持ち多くの研究者を育ててきた先生です。著書『アメリカ臨床医物語−ジャングル病院での18年』を読み、その経歴が新鮮であこがれました。“Physician scientist”という言葉を知ったのも、この本からでした。

 そこで、すぐに中田先生にお会いし、先生の脳の研究についての独自の理論を聞かせてもらうとともに、physician scientistになるにはどのような道があるのかも教えてもらいました。そして臨床留学という方法があることを知り、米国で臨床をしたいと思うようになりました。5年生から臨床実習が始まり、興味が基礎研究から臨床にシフトしていたこともあります。

 米国で医師になるには米国で臨床研修を受ける必要があります。それには、日本で医師の資格を取った上で、USMLE(米国医師国家試験)に合格し、さらにECFMGが発行する認定書を取得しなければなりません。私は東京海上日動メディカルサービス社の「Nプログラム」を利用し、ニューヨークのベスイスラエル病院で臨床研修を受ける道を選びました。

 USMLEには3つのステップがあり、ステップ1と2のClinical Knowledgeは日本国内で受験することができます。USMLEのステップ2までは順調に合格でき、ステップ3は留学後に合格することができました。

 米国への臨床留学の準備を進める一方、日本の医師国家試験の合格後の臨床研修病院として虎の門病院を選びました。大学病院のような専門性があり、かつ、市中病院としての機能をもつこの病院で臨床医としての基礎を築こうと考えていました。そして無事にマッチングでき、「いよいよ新潟を出るんだ」と感慨深いものがありました。

 2006年4月から虎の門病院での初期研修が始まり、2年目の最初に血液内科で2カ月、その次に神経内科で2カ月の研修を受けました。どちらの科でも学ぶことが多く、しかも楽しく研修を受けることができました。あるとき、血液内科から飲み会に誘われ、血液内科は神経内科に次いで興味のある分野だったので、喜んで参加しました。そこには、チームで手ごわい病気と闘った後の苦労を、飲み会の盛り上がりと活気で癒すような雰囲気があり、とても温かい気持ちになりました。小学校から大学まで野球のチームにいた私は、「これは谷口修一先生が作ったチームなんだな」と実感し、その日に「血液内科の道に進もう」と決めました。それまで、脳研究をするなら神経内科でという強い思いがあったので、だいぶ葛藤したのですが、案外簡単な理由で針路が決まるものです。谷口先生を始めとした虎の門病院の血液の先生方からは、この間に本当にたくさんのことを教わりました。米国で曲りなりにも血液の臨床ができているのは、この時のトレーニングのおかげだと思っています。

 初期研修を終える頃には、米国への留学が決まっており、留学までの数カ月間は虎の門病院血液内科の受託研修医として勤務しました。そして2008年7月から、いよいよベスイスラエル病院での3年間の臨床研修が始まりました。

2016年ASHにて、虎の門病院の山本久史先生(中)と谷口修一先生(右)と。心から尊敬する先生方です。
2016年ASHにて、虎の門病院の山本久史先生(中)と谷口修一先生(右)と。心から尊敬する先生方です。

〈後編では、MDアンダーソンでの3年間の研修生活と現在のお仕事について語っていただきました。〉