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気鋭の群像Young Japanese Hematologist

目指すは最善の治療法の追求
医学、生物学、統計学を駆使し挑む(前編)

佐々木宏治(MDアンダーソンがんセンター 白血病科 アシスタントプロフェッサー)

米国・MDアンダーソンがんセンターの佐々木宏治氏
米国・MDアンダーソンがんセンターの佐々木宏治氏

米国・MDアンダーソンがんセンターの佐々木宏治氏は、白血病を中心に基礎研究、臨床研究を重ね、2019年9月に同センターの慢性骨髄性白血病(CML)部門のリーダーとなった。医学・生物学だけでなく、得意の数学や統計学の知識をベースに、機械学習モデルを用いて様々な臨床背景を持つ患者と多様な生物学的背景を持つ疾患の組み合わせから、最善の治療法を提案する次世代個別化医療という夢の実現に向かって突き進んでいる。

 第81回日本血液学会学術集会で、一般演題2題を口演しました。「新規発症Ph陽性急性リンパ性白血病に対するポナチニブ併用Hyper-CVAD療法による第Ⅱ相試験」と「新規発症Ph陰性急性リンパ性白血病高齢者に対するイノツズマブ併用低毒性化学療法と標準化学療法の比較」です。学術集会2日目に「機械学習を用いた新規発症骨髄異形成症候群に対する脱メチル化薬の奏効予測」という演題も口演する予定でしたが、残念ながら台風の影響でプログラムが中止となり、ランチョンセミナー「慢性骨髄性白血病-Road to Treatment-free Remission-」での講演も行なえませんでした。

 しかし、私が米国・MDアンダーソンがんセンターで行なっている研究の成果を少しでも日本で紹介するよい機会になったのではないかと思っています。

感染症の研究に取り組んだ祖父がロールモデル
その時代に一番大事な疾患の克服に取り組む

 私は、高校生になったときには「医学部に進む」と決めていました。その決断に大きな影響を与えたのが祖父です。祖父は福嶋孝吉といい、横浜市立大学第一内科に勤務し、教授として感染症を中心に研究をしておりました。祖父が医師になった頃は、結核や肺炎など感染症による死亡が最も多く、その時代に医師として最も重大な病気の克服に懸命に取り組んでいた話を幼い頃から聞いていました。

 私は1980年に生まれ、父親の転勤に付き添い、横須賀市の追浜、福島県の郡山市、兵庫県の川西市、広島市、札幌市と転居を繰り返していました。度重なる転勤による教育への影響の心配から、中学校一年時に埼玉県大宮に住む祖父母と一緒に暮らすようになりました。周囲の多くの方々から尊敬されている祖父の背中を見ながら、中学〜高校時代を過ごし、自然に祖父の生き方に憧れるようになりました。

 地元の中学校に通いながら、漠然と医師になりたいと思い始めていた私は、医学部を目指すことができる高校として、東京の開成高校を選びました。入学したときにはもう「医学部に進む」と決意し、他の学部は考えられませんでした。

3年間ラグビーに打ち込んだ高校時代
3年間ラグビーに打ち込んだ高校時代

 高校ではラグビー部に入り、3年間、楕円球を追いかける毎日を送りました。そして一浪して2000年に東京医科歯科大学に入学することができました。当時を思い返せば、周囲に触発されて自然科学への憧れからTHE CELLを読破したり、充実した生活を送っていました。残念ながら、祖父は私が医学部に進む前の高校3年生のときに脳卒中で亡くなりました。大宮の自宅で祖父が目の前で亡くなった際のことを昨日のことのように覚えています。亡くなったあとも、祖父に指導を受けたという方々が多く訪れ、「真面目で清廉な先生だった」と異口同音に語っていました。でも、どうやら後進には厳しく、孫には優しいらしいという噂もあったようです。一緒に暮らしていたときの祖父の姿と、教え子の先生たちが抱く祖父のイメージは違うのでしょうが、「いつまでも祖父に誇れるような人間でありたい」と強く思いました。

 ロールモデルである祖父が、その時代に一番大事な感染症に取り組んだように、私も医学部に進んでからは、既に死因の一番となっていたがんの克服を目指そうと考えるようになりました。

学生時代から「がん研究ならMDアンダーソン」
米国医師国家試験に向け数年がかりで準備

 大学ではテニス部に所属し、6年生の最後までテニスを続けました。学園祭の実行委員長を務めるなど、学生生活を満喫しました。一方で、がんについての勉強を続けているうちに、研究や臨床に取り組むなら実績が多い米国の研究機関、中でもMDアンダーソンがんセンターを自然と意識するようになりました。そして、大学5〜6年生のときにはがんに関わる腫瘍内科(oncology)を目指すようになりましたが、当時は「腫瘍内科学」という講座のある大学が少ない黎明期で、初期研修中も進路先に悩んでいました。

 米国で臨床医になるには、日本の医師国家試験に合格した上で、米国でのレジデンシー・プログラムへ参加するために、USMLE(米国医師国家試験)Step 1(基礎医学中心)、Step 2 Clinical Knowledge(臨床医学中心)、Step 2 Clinical Skill(模擬患者診察)と3つの試験に合格した上にECFMGという機関が発行する認定証を取得しなければなりません。さらに、臨床研修を受けるにはNational Residency Matching Program(NRMP)という公募制度によって応募し、スクリーニングをされた後に面接を受け、マッチング制度を通じて教育病院に採用されなければなりません。

 幸いにも東京海上グループの東京海上日動メディカルサービス社が後援する「Nプログラム」という、米国レジデンシー・プログラムに日本の若手医師を派遣するプログラムがあることを知りました。これは、ニューヨークのマウントサイナイ・ベスイスラエル病院と提携し、日本の若手医師数人を毎年レジデントとして臨床トレーニングのために派遣するプログラムで、ベスイスラエル病院で3年間の臨床研修を受けられるというものです。

 早速私は、日本の医師国家試験に向けての勉強を開始するとともに、TOEFLのための英語の勉強も始めました。6年生のときには、英語の論文を日本語で日本の新聞を読むような感覚、つまり一字一句を詳細に追わずとも、趣旨を理解できるくらいの力をつけることができました。USMLEは、長文の問題を短い時間で理解し、解答することが求められるため、その対策でもありました。

 2006年に医科歯科大を卒業し、2年間の初期研修を同大附属病院で受けました。アメリカに臨床留学をした場合、日本のアカデミアに貢献し続けたいと思っていましたので、大学での初期研修を第一に考えていました。私が初期研修医の頃は多くの場合、勤務は夜9時頃までには終わりますから、寝るまでの2〜3時間を主にUSMLEの勉強に充てました。

 初期研修の間に、がん領域のどの分野に進むか思い悩んでいました。外科系に進むことも考えましたが、祖父が内科医であったこと、そして今でこそリキッドバイオプシーを通じて固形腫瘍でも末梢循環腫瘍細胞やセルフリーDNAが可能ですが、当時から白血病は採血だけで簡便に分子学的解析を実施することができ、同種幹細胞移植を含めて包括的に患者さんと関われることから血液内科に進むことを決めました。例えば、生物学的に多様な急性骨髄性白血病(AML)で治癒可能な薬剤やアプローチが開発されれば、その分子メカニズムが共通する他のがんにも応用できるはずで、そうなればがん治療全体に大きく貢献できるだろうと考えたのです。

 そして後期研修は、医科歯科大病院の血液内科で受けることに決め、横須賀共済病院に1年間、その後、東京医科歯科大病院に1年間勤務しました。その間にNプログラムの選考に何とか通り、米国への臨床留学が実現することになりました。

MDアンダーソンがんセンター
MDアンダーソンがんセンター

〈後編では、過酷な競争のなかMDアンダーソンで現在の地位を築かれるまでの道のりをお話しいただきました。〉