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この人に聞くThe Experts

名大から東海大へ、名古屋に戻り最後は国立がん研究センター
オープンマインドで大組織の変革と進展に尽力(後編)

堀田知光(国立研究開発法人国立がん研究センター 名誉総長、国立病院機構名古屋医療センター 名誉院長)

堀田知光(国立がん研究センター名誉総長)

堀田知光氏

1944年愛知県生まれ。愛知県立半田高等学校卒業、名古屋大学医学部へ進学し、1969年に同大学卒業後、名古屋大学医学部第一内科に入局。1986年第一内科助手、90年同講師を経て、96年に東海大学医学部内科教授として赴任。同大医学部の教育制度と医局制度の改革を手がけ、2002年から医学部長を務める。2006年に独立行政法人国立病院機構名古屋医療センター院長に赴任し、独立行政法人化後の同センターの経営改善を進めた。2012年に国立がん研究センターの理事長に選任され、就任後は最先端のがん医療と研究開発はもとよりがん患者の人生そのものを見据えた治療に取り組むとの方針を掲げ、「がんサバイバーシップ支援研究部」などを発足させた。2022年、瑞宝重光章受章。2005年日本臨床腫瘍学会総会長、2007年日本リンパ網内系学会総会長、同年日本血液学会総会長を務める。

 2006年1月に開設された東海大学新病院の計画には施主として実現に努めました。当時は病院の建替えでは病床を増やす傾向がありましたが、高機能化を目指して新病院は300床減らして800床規模とし、メディアや医療関係者から注目されました。ポイントは、病床が減っても人を減らさず、かつ収入を増やすことでした。21室の手術室ではあらゆる手術に対応できるシステムを開発するなど、病院関係者が一丸となってそれまでにない様々な取り組みにより新病院が完成しました。

 ところが東海大に来て10年目、また大きな転機が訪れました。新病院の開設直後のことです。

独法化した名古屋医療センターでは
コミュニケーションを深め病院評価を上げる

 名古屋大で長年ご指導いただいた、名古屋医療センター院長(当時)の齋藤英彦先生から「2006年3月に定年で退任する。後任者として名古屋に戻ってきてほしい」との連絡をもらいました。私は迷いました。東海大の医学部長は6年務めるのが慣例でしたし、次の医学部長候補は決まっていません。松前先生はもちろん認めようとしません。しかし、齋藤先生の意思は固く、国立病院機構理事長(当時)の矢崎義雄先生とともに松前先生に直談判しましたが、最初は物別れに終わりました。

 その後、何度かのやり取りの末、2006年4月からの名古屋医療センター院長就任が決まりました。極秘で進められた人事で、血液内科の教室員には直前に伝えることがやっとでした。教授としての最終講義もしないままでのお別れとなり、教室員や関係者には申し訳ないことをしたと、今も心が痛みます。

 名古屋医療センターでは通常の診療はせず、院長回診のみにして管理職として独法化3年目を迎えた病院の風土の見直しに着手しました。国立病院についてはそれまで、無愛想、不親切、事務的といった利用者の声が多く、名古屋医療センターも例外ではありませんでした。相手の立場に立った丁寧な対応を心がける、救急部門は忙しくても断らないなど、いくつかの改善案を提案しました。とはいえ、2年前まで国立病院だった施設に勤務する職員の意識を変えるのは並大抵ではありません。

 そこでまず、断らない診療の実践に向け、毎朝、全科の当直診療を報告してもらうことにしました。患者さんの受け入れ状況や、診療を断った場合のその理由などです。こうした積み重ねにより少しずつ患者を断らない意識が芽生えていきました。人手が足りないことは重々承知しているので、特に忙しい救命救急センターには土日や休日に赴いて菓子を差し入れたり、運動会や球技大会に自ら参加して、様々な部門とのコミュニケーションを継続しました。

 病院としての目標は明示しました。電子カルテの導入、7:3の看護体制の確立、地域医療支援病院の要件を満たすことです。いずれも加算があり、病院全体で10億円余りの利益が出るようになり、国立病院機構の評価はBからAAにまで上がりました。そのときには、わずかですが全職員に臨時ボーナスを渡すことができました。職員のみんながついてきてくれたからこその成果ですから。

2008年10月 名古屋医療センター小児病棟にホスピタルクラウンの訪問を受けた際の院長室でのスナップ
2008年10月 名古屋医療センター小児病棟にホスピタルクラウンの訪問を受けた際の院長室でのスナップ
2011年11月 名古屋医療センター運動会でリレーに参加。若い職員に抜かれました
2011年11月 名古屋医療センター運動会でリレーに参加。若い職員に抜かれました

 名古屋医療センターに赴任して7年目を迎えようとする2011年に、またも大きな転機が訪れます。国立病院機構理事長の矢崎先生から「来年度もよろしく」というお話があったすぐあとに、「国立がん研究センターの理事長に応募しないか」という声が掛かったのです。はて何の話だろう、国立がん研究センターのトップといえば、東京大学か慶應義塾大学の出身者、もしくは内部昇格者と思っており、私には全く縁のないポジションです。

 しかし、応募を強く促してきた人たちは「今、国立がん研究センターが危機だ」と有無を言わさぬ勢いで説得してきました。初めはお断りしましたが非常に熱心に推薦され、断りきれなくなり直前に応募しました。そして、現職理事長を含む3人の候補者の中から私が選任されました。

国立がん研究センターの不安定を鎮め
4年間で改めて診療・研究・教育の礎を築く

 国立がん研究センターにも落下傘での赴任でした。私がJCOG(日本臨床腫瘍研究グループ)のリンパ腫グループの代表者であることを知っている医師はいたと思いますが、多くの職員は「Who Hotta?」と思ったでしょう。

 独法化後に初の理事長となった嘉山孝正先生が大鉈を振るわれたのは、センターの大改革でした。急激な変化によりいびつになった組織や人事システムを整理して、不安定になった職員の気持ちを鎮めること、数年後に国立研究開発法人となることに向けての土台作りが私の理事長としての役割でした。

 着任後には戸惑うことが多くありました。例えば、着任初日に車を降りて職員用の玄関に向かうと、階段から廊下の奥まで赤絨毯が敷かれ、その両脇には院長、研究所長、看護部長、事務部長をはじめ、要職者がずらりと並んでいました。しかし私はその状況をよく理解できず、到着が遅れていたこともあり、挨拶もそこそこに理事長室に急ぎました。あとで「私たちはあの場所で長時間待っていたんですよ。着任の挨拶を兼ねてゆっくり声を掛けてほしかった」と聞かされ、職員の心遣いを考えていなかったと反省しました。

 またセンターでは、いろいろな部門から様々な決済書類が上がってきます。初めて読む書類ばかりなので、分からないことがあれば「時間のあるときでいいから、理事長室に来てほしい」と連絡すると、ほとんどの職員が飛んできました。ところが、私の質問に対して、緊張のあまり話せない職員が少なくありませんでした。これは職員にトラウマが残っていると感じ、密なコミュニケーションが必要だと痛感しました。

 まず、オープンマインドを形にするため、理事長室の扉を、私が在室のときは常に開けておき、誰もがいつでも入れるようにしました。また就任してすぐに、中央病院と東病院のそれぞれで中核を担う役職員約100人から、現状、課題、要望をヒアリングしました。

 就任時には全職員に向けてセンターの今後の方針について話す機会がありました。私は「最先端のがん研究やがん医療に挑む」という使命はもちろん重要だが、がんサバイバーが増加する背景を踏まえて、がん患者さんの人生そのものを見据えた治療にも取り組んでほしい、と語りかけました。

 また、築地キャンパスと柏キャンパスをつなぐセンター横断的な組織として「先端医療開発センター(EPOC)」「研究支援センター」「希少がんセンター」などを整備し、風通しの良い組織作りにも努めました。センターの各部門には、実に多くの有能かつ意欲的な人材があふれています。組織作りと相まって、彼らが新たな診療・研究の礎を築いたと思います。

2016年1月 国立がん研究センターがん登録センターの開所式。多くの取材を受ける。右は厚生労働省健康局長の福島靖正氏 2016年1月 国立がん研究センターがん登録センターの開所式。多くの取材を受ける。右は厚生労働省健康局長の福島靖正氏
2016年1月 国立がん研究センターがん登録センターの開所式。多くの取材を受ける。右は厚生労働省健康局長の福島靖正氏

 2016年に退任し、名古屋に戻りました。様々なことから解放され、悠々自適ののんびりした生活を送ろうと思っていました。が、それまで大病をしたことのなかった私が、3つの厄介な病気に次々と見舞われました。顔面神経麻痺、副甲状腺ホルモンの異常、そして消化管の腫瘍です。今も手術の後遺症に悩まされることがありますが、日常生活ではとくに支障なく過ごしています。

 血液内科は、医師自らが顕微鏡を覗いて診断を下したり、患者さんの状況に合わせて治療法を選択し、造血幹細胞移植を実施するなど、診療に一貫して関われる自己完結可能な診療科です。そして手術や内視鏡、カテーテル治療などのように経験値がものを言う場面は少なく、若手もベテランもデータに基づいて同じ土俵で議論できるのも特徴です。薬剤開発では、特にリンパ腫では常に最先端の研究が進み、がん全体の治療薬の開発を牽引してきました。多くの若手医師、研究者が、この活気と熱気にあふれる血液の世界に目を向けることを願っています。