名大から東海大へ、名古屋に戻り最後は国立がん研究センター
オープンマインドで大組織の変革と進展に尽力(前編)
堀田知光(国立研究開発法人国立がん研究センター 名誉総長、国立病院機構名古屋医療センター 名誉院長)
2025.06.19
「この人に聞く」のシリーズ第22回は、国立がん研究センター名誉総長の堀田知光氏にお話をうかがいました。名古屋大学を卒業後、第一内科に入局、血液内科の臨床医として25年間診療と研究に注力しました。50歳のときに東海大学医学部に異動し、内科学教授、医学部長を務めた後、名古屋医療センター院長として再び名古屋に戻り、さらに国立がん研究センター理事長に転任して4年間務めました。「血液内科の診療は高度な手技や経験値がそれほど重要とは言えず、データを基に若手医師はベテランと同じ土俵で議論できる。若い人たちには新しい発想を生かして活躍してほしい」とエールを送ります。
堀田知光(国立がん研究センター名誉総長)

1944年愛知県生まれ。愛知県立半田高等学校卒業、名古屋大学医学部へ進学し、1969年に同大学卒業後、名古屋大学医学部第一内科に入局。1986年第一内科助手、90年同講師を経て、96年に東海大学医学部内科教授として赴任。同大医学部の教育制度と医局制度の改革を手がけ、2002年から医学部長を務める。2006年に独立行政法人国立病院機構名古屋医療センター院長に赴任し、独立行政法人化後の同センターの経営改善を進めた。2012年に国立がん研究センターの理事長に選任され、就任後は最先端のがん医療と研究開発はもとよりがん患者の人生そのものを見据えた治療に取り組むとの方針を掲げ、「がんサバイバーシップ支援研究部」などを発足させた。2022年、瑞宝重光章受章。2005年日本臨床腫瘍学会総会長、2007年日本リンパ網内系学会総会長、同年日本血液学会総会長を務める。
2024年開催の第86回日本血液学会学術集会で、上田龍三先生、押味和夫先生とともに、血液学会功労賞を受賞しました。感謝状を授与された理事長(当時)の松村到先生は「今回で4回目となる功労賞は、リンパ腫治療の進展に貢献した3人の先生方にお贈りする」と述べられました。上田先生、押味先生という錚々たる方々と一緒に受賞したことは誠に光栄でした。
私は、名古屋大学で血液疾患の診療や研究に25年間向き合い、そののち東海大学に転進し、当時医学部長だった黒川清先生のもとで教育制度と医局制度の改革を進めました。10年間の勤務ののち、名古屋医療センターに異動、独立行政法人化後の同センターの組織改革と経営改善に取り組みました。そして2012年からは国立がん研究センター理事長として、独立行政法人化後の混乱した状況を鎮め、その後に国立研究開発法人となった同センターの発展の土台を築いたと自負しています。この間、新薬の治験やJCOG(日本臨床腫瘍研究グループ)での標準治療確立のための臨床試験活動に加えて、こうした一連の社会活動が血液学会に評価されたと考えています。もちろんこれらの取り組みは私一人でできるものではなく、多くの関係者の理解や協力があってこそ実現できました。これまでお世話になった方々に改めてお礼を申し上げます。
研修医時代に重症AA患者と出会い血液の道に
名古屋大で25年にわたり臨床と研究に邁進
私は愛知県立半田高校を卒業後、名古屋大学医学部に進学し、1969年に卒業しました。研修医時代に、重症の再生不良性貧血(AA)の30歳代の女性患者さんを担当しました。高度な貧血、白血球減少、血小板減少が続きましたが、当時はG-CSF、成分輸血、免疫抑制剤、造血幹細胞移植などの治療法はなく、手の施しようがないまま、診断から短期間で亡くなりました。当時の私にとってこれは衝撃的な出来事でした。
このことがきっかけとなり血液の道に進むことを決めました。AAも含め、血液疾患の患者さんが少しでも良くなる治療とその研究をしたいと思い、貧血や悪性リンパ腫の診療と研究を行っていた名古屋大第一内科に1970年に入局しました。当時は「造血幹細胞」という概念が唱えられ始めた時期で、私はその最新研究を学ぶため、東京大学第三内科の高久史麿先生の門戸を叩きました。米国から帰国されたばかりの溝口秀昭先生がおられたからです。東京・本郷の赤門近くの宿に泊まり、2週間ほど通い、短期間で多くのことを教えていただきました。その後も高久先生からはたくさんのことを学び、長きにわたって大変よくしていただきました。
そのときに学んだ手法を用いた培養法による造血コロニー法で造血障害の病態を明らかにすることを目指しました。その後は赤芽球や巨核球を含むコロニー形成により造血幹細胞に近い細胞の培養ができるようになり、造血幹細胞と微小環境に注目した研究を進めました。
造血幹細胞の研究を進める一方で、血液疾患患者さんの診療にも注力しました。名古屋大病院を中心に診療を行い、86年に同大助手、90年に同大講師となりました。また、1984年からは岐阜医療技術短期大学の助教授を務めた時期もありました。そして名古屋大に入局して25年勤務したとき、転機が訪れます。東海大学医学部から「こちらで仕事をしないか」と声が掛かったのです。


東海大学に“落下傘”状態で単身での転進
血液内科そして医学部全体の組織改革
当時、私は50歳を迎えており、その後のキャリアについて悩んでいました。臨床経験を積みながらも管理職としての業務が増えていました。「これからどんなキャリアを積みたいのか」を改めて考え、まだ血液診療を極める必要があると感じ、「臨床から離れない」と結論しました。
そして1996年4月に東海大学血液内科教授として単身で赴任しました。縁もゆかりもない組織に異動するケースでは、身内の若手を1~2人帯同することが多いようですが、当時の東海大学理事長・総長の松前達郎先生からの「東海大の卒業生を育ててほしい」とのご意向もあり、若手を育てようと決意しました。チャレンジでした。
まず驚いたのが、医局の“たまり場”である休憩室に、漫画が山積みされ、ゲーム機もあったことでした。当時の血液内科は臨床中心で、医局員は臨床には心血を注いで取り組んでいましたが、研究や海外情報の取得にはあまり熱心ではありませんでした。研究もできる臨床医になってほしいと考えていた私は、自ら実験室で細胞の培養や凍結保存、DNAの抽出などの手技を彼らに見せることにしました。
すると、興味を持った医師が少しずつ増え、実験の目的や手技について聞いてくるようになりました。やがて、最先端の研究が学べるのは欧米の大学や研究室だと伝えると、「留学したい、それには何が必要か」と問う医局員が出てくるようになりました。これなら希望が持てると思いました。
1995年に医学会総会が名古屋で開催されました。私はたまたま組織委員会の幹事長を務めた4年間に全国の多くの著名な研究者の知己を得ました。その縁もあって東海大学に赴任した直後に国の再生医工学分野の大型研究プロジェクトに参加し約1億円の研究費を預かりました。この研究費を東海大に預けたところ、大学は「赴任したばかりの堀田がカネを持ってきた」と評価し、その研究費は造血幹細胞の本態研究や移植の研究の進展に大いに役立ちました。5年後には血液内科は、東海大医学部で最も勢いのある教室の一つと評価されるようになりました。

一方で、私と同時期に医学部長として赴任された黒川清先生は、東海大医学部の教育改革と医局改革に着手していました。例えば、教員を米国のメディカルスクールを中心に視察派遣してクリニカルクラークシップの仕組みを作ったり、教授が絶対権力を振るうような人事や教育システムも変えていったりしました。現場からは戸惑いや反発もありましたが、黒川先生は信念を持って推し進めました。
私は2002年に黒川先生の後任として医学部長を拝命しました。一部の教授からは不満などがくすぶっていましたが、私も黒川先生と一緒に改革に取り組んでいたので路線の修正はせず、現場の教職員や学生の声に耳を傾け、何が問題なのかを整理し、解決策を探り、改革の意図と目標を静かに定着させていきました。血液内科は、研究実績、診療科の収益など「東海大では断トツの成績」を残し、これまでに学内外で数名の教授を輩出しました。これは私の誇りです。


〈後半では、全く縁のないポジションだと考えていらした国立がん研究センター理事長に就任された経緯などを語っていただきました。〉