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この人に聞くThe Experts

ATL、HTLV-1の臨床と研究の最前線を走り続ける
高齢患者が快適に長く生きる治療戦略も必要に(前編)

宇都宮與(今村総合病院 名誉院長、臨床研究センター長)

「この人に聞く」のシリーズ第18回は、今村総合病院名誉院長の宇都宮與氏にお話をうかがいました。成人T細胞白血病(ATL)が発見された1977年に、奇しくも鹿児島大学を卒業した宇都宮氏は、その後40年以上にわたり血液内科の道を歩み、ATLの診療とヒトT細胞白血病ウイルス(HTLV-1)の研究に取り組み続けてきました。「検査や画像の異常がみられたとき、なぜこうなったのかを徹底的に突き詰め、推論することが、正確な診断と適切な治療を行なうために極めて重要だ」と話します。

宇都宮與(今村総合病院 名誉院長)

宇都宮與氏

1977年3月鹿児島大学医学部卒。同年4月鹿児島大学第二内科入局。80年4月〜81年4月愛知県がんセンター国内留学。84年10月国立都城病院勤務を経て、87年8月慈愛会今村病院分院血液内科部長。2004年6月今村病院分院院長、17年6月今村総合病院院長(病院名変更)。18年4月より今村総合病院名誉院長、臨床研究センター長、HTLV-1研究センター長に就任。血液・がん関連のさまざまな学会で評議員などを務めてきたほか、AMEDや厚生労働省、JCOG-LSG、JSPFAD、JALSGなどが実施するATLやHTLV-1に関する多くの研究に現在も携わっている。学生時代から続けている卓球では、全日本医師卓球連盟会長、ジャパンメディカル卓球連盟会長や母校の鹿児島大学卓球部OB会会長なども務める。

 大学を卒業して45年、今村総合病院に勤務して35年が経ちました。卒業後、すぐに鹿児島大学第二内科(血液グループ)に入局し、まもなく成人T細胞白血病(ATL)の患者さんを診療するようになりました。その後、全国のATLの症例を集め、その治療成績の解析から骨髄移植が大きな治療効果を上げることを2001年に発表し、ATLの専門家として認められました。現在もATLの治療とその原因となるヒトT細胞白血病ウイルス(HTLV-1)の研究を続けています。

 もう一つ、私が長く続けてきたことは卓球です。中学時代に始めて、大学時代、さらに医師になってからも練習と試合を重ねてきました。このことについても少しお話ししたいと思います。

2018年4月 今村総合病院8階血液病棟にて
2018年4月 今村総合病院8階血液病棟にて
伊藤能清血液内科主任部長(前列中央)を迎えた新体制での造血細胞移植チーム

「研究したい」と理系の学部を目指すものの医学部へ
研修先の病院では週5日泊まり込む生活に

 私は愛媛県三瓶町(現:西伊予市三瓶町)のみかん農家の6人兄弟の末っ子でした。山あいの町でどの家も貧乏でしたが、両親はせめて大学に行ってほしいと考え、私は大学に進学することができました。大学で研究したいと考えていた私は、当時の関西の国立一期校の工学部を受験しましたが、あえなく不合格に。二期校では医学部を目指し、中国・四国・九州地方では山口大学か鹿児島大学の二択となり、鹿児島大学を受験し合格しました。

 研究するために大学に入ったものの、実は卓球三昧の学生生活となっていました。卓球は中学生から始めたのですが、中学には卓球部がなかったため、友だちに声を掛けて5人集めて何とか男子卓球部を作りました。小学生のときは体育が苦手な私でしたが、卓球では腕を上げていきました。高校(県立八幡浜高校)では、大学受験を目指して卓球は封印したものの、大学では卓球漬けになりました。

1973年5月 第12回九州山口医科学生体育大会(宇部市)
1973年5月 第12回九州山口医科学生体育大会(宇部市)
団体戦:準優勝、シングルス:優勝、ダブルス:優勝
1973年8月 第25回西日本医科学生総合体育大会(金沢市)
1973年8月 第25回西日本医科学生総合体育大会(金沢市)
団体戦:準優勝、シングルス:準優勝(左は有村公良先生)

 医学部の卓球部には血液内科に進んだ先輩が2人いて、5〜6年生のときは、先輩のいる腫瘍研究施設に出入りするようになりました。私が血液内科の道に進んだきっかけは、診断から治療まで内科だけで完結できる診療科であると考えたこと、また、臨床に携わりながら研究もできる領域であることを知ったからです。

 1977年に大学を卒業し、血液内科のある鹿児島大学第二内科に入局しました。最初の半年は大学病院の病棟で、1年目の後半は鹿児島市立病院で救急医療の研修を受けました。市立病院での研修は私の希望でもあり、臨床経験を積むのに絶好の現場だと考えました。病院では、昼間の研修だけでは自分で診療を受け持てる機会はわずかです。スタッフの少なくなる夜間は診療のチャンスだと思い、週に5日は病院に泊まり込む生活に入りました。“卓球命”だった学生時代の勉強不足を取り戻したいという思いもありました。

 救急車が来ると真っ先に迎えに走りました。緊急手術が必要な患者さんが運び込まれると、私は執刀する外科医の第一助手として立ち会い、麻酔科医がほとんどいなかった時代ですので気管挿管や人工呼吸器の管理、血管確保など全身管理の手技も覚えました。救急車のサイレンが空耳で聞こえるほどの毎日でした。

数カ月で亡くなるATL患者を目の当たりに
愛知県がんセンターで抗がん剤治療を学ぶ

 研修2年目は大学病院第二内科で、肝臓、消化管、肝胆膵、腎臓、循環器、糖尿病、血液内科の患者さんの診療に当たりました。血液内科では、診断からわずか3〜4カ月で亡くなるATLの患者さんを目の当たりにし、こうした難病の患者さんを何とか救えるようにしたいと強く思うようになりました。ATLは、私が大学を卒業した1977年に京都大学の内山卓先生と高月清先生らが発見した新しい疾患です。私の医師としての歩みとATLの研究の歴史は奇しくも重なり、ATL、HTLV-1の研究を続けていくことになりました。

 第二内科では多くのATL患者さんを診療しましたが、亡くなる方も多く剖検も数多く担当しました。治療薬がない時代であり、ATLによる腫瘍死ばかりでなく、感染症で亡くなる方が多いことも分かりました。ATLによって免疫不全となり、患者さんは同時にいくつもの感染症を併発していることも少なくありませんでした。特に沖縄や奄美群島では、小さい頃に身体に入り込んだ糞線虫がATLで顕在化して糞線虫症を発症する例を多く見ました。

 こうした多くの例を通して、ATLの患者さんは全身にATL細胞が浸潤したり、免疫不全による日和見感染症が多発することに加え、高カルシウム血症を発症して尿細管にカルシウムが沈着していたり、多尿にもかかわらず尿毒症となったり、いろいろな病態を呈していることも分かってきました。私は、どうしてこういう病態を示すのか、あれこれ推論しました。目の前の病態を当たり前とは思わず、その理由を突き詰めるようになったのは、このときからです。正確な病態把握、正確な診断、適切な治療という臨床医としての役割を果たすためには、この推論は極めて重要だと考えています。

 卒後3年目は、地域医療の実践を学ぶため、宮崎県高原町の国民健康保険高原病院や奄美大島の鹿児島県立大島病院に勤務したのち、1980年4月から1年間、愛知県がんセンター第二内科の太田和雄先生のもとに国内留学することになりました。抗がん剤治療の習得が目的で、白血病や悪性リンパ腫の患者さんに対する抗がん剤の組み合わせによる新しい治療法の開発や、リンパ腫の患者さんに対する新規治療薬の有効性を確認する臨床試験に参加しました。ニューヨークのスローンケタリングがん研究所から帰国された上田龍三先生とも、数カ月ですが一緒に研究する機会がありました。

 愛知県がんセンターでは、肺がんの診断と治療も学びました。特に肺がん患者さんの胸部X線写真の読み方は今でも役に立っています。カンファレンスでは、まず1枚の画像から何が読み取れるかを考え、議論します。その後、CT画像、気管支造影像、気管支鏡所見などが少しずつ提示される中、さらに議論を重ねます。最後にマクロとミクロの病理標本が示されることで、どういう病気だったのか、どういう経過をたどったのかを全て学ぶことができました。

骨髄移植の治療成績を国際誌へ発表
ATLの専門家として多くの調査・研究に参加

 1981年5月に鹿児島大学に戻ってからは、引き続きATL患者さんの診療、病気の解明や治療開発に取り組み、84年10月から国立都城病院に1年半勤務し、その後再び第二内科での勤務を経て、87年8月から今村病院分院(現:今村総合病院)の血液内科部長として勤務することになりました。元々、今村病院(現:いづろ今村病院)が鹿児島大学の関連病院で、1976年に血液内科が開設され、84年に今村病院分院の新規開業に伴い血液内科が移設され、そこの部長を務めることになったのです。「取りあえず数年間」のつもりの勤務でしたが、気がつけば35年経ちました。

2016年8月 第3回日本HTLV-1学会学術集会 会長招宴会(鹿児島市レンブラントホテル)
2016年8月 第3回日本HTLV-1学会学術集会 会長招宴会(鹿児島市レンブラントホテル)
特別講演にフランスからGessain先生(前列右から6人目)、オーストラリアからEinsiedel先生(前列右から4人目)をお迎えして

 病院にはATLの入院患者さんがとても多いものの、治療成績は厳しい時代でした。血液内科の病床は45床で、多いときには20人以上のATL患者さんが入院していました。当時ATLの予後は極めて不良で、スタッフは自分たちの努力が報われないことから、士気が下がり気味でした。「またATL患者さんですか」とこぼすスタッフに、私は「患者さんは好きでATLになったわけではない。厳しい病気だからこそ、われわれが真剣に取り組み、一緒に闘うんだ」と諭しました。とはいえ、治療法がほとんどないことが問題であり、治療を進歩させていくことこそが最も重要であることは私自身が痛感していました。

 当時、造血器腫瘍の領域では骨髄移植治療が始まり、ATL以外の白血病患者さんの長期生存や治癒が可能になってきた時代でした。ATL患者さんに対する骨髄移植も国内で試験的に行なわれ、移植の先端を行く名古屋グループからアグレッシブATLを対象にした移植の治療成績が発表されましたが、症例が少ないこともあり、期待する成績は得られませんでした。その結果、わが国ではATLに対する移植治療の評価は、基礎医学の研究者も含め否定的な流れになっていました。

〈後編では、ATLのご研究と治療について、また趣味の卓球についても語っていただきました。〉