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この人に聞くThe Experts

造血器腫瘍の研究と治療の進歩を先導
東北大学、秋田大学の血液学の礎を築く(前編)

柴田昭(新潟南病院 名誉院長、新潟大学 名誉教授)

「この人に聞く」のシリーズ第14回は、新潟大学名誉教授の柴田昭氏にお話をうかがいました。1956年に新潟大学で血液学の道を歩み始め、約半世紀にわたり、わが国の血液学の研究の発展、造血器腫瘍治療の進歩に貢献するとともに、血液内科のなかった東北大学、秋田大学に研究と診療の拠点を築きました。「研究の本当の面白さは、すべてを自分でやってこそ分かるもの。若手医師には、もっと元気を出して血液学に取り組んでほしい」とエールを送ります。

柴田昭(新潟南病院 名誉院長、新潟大学 名誉教授)

柴田昭氏

1930年新潟県生まれ。1955年新潟大学医学部卒業。56年同大大学院医学研究科入学。60年東北大学大学院医学研究科修了、同大医学部附属病院助手。70年秋田大学医学部助教授。73年11月〜74年10月まで文部省在外研究員として米国とオーストリアに出張。75年秋田大学医学部教授。77年新潟大学医学部教授に。90年新潟大学医学部附属病院病院長。92年新潟大学医学部長。96年新潟大学名誉教授、立川綜合病院病院長、北里大学医学部客員教授に。98年立川メディカルセンター総長。2001年新潟南病院名誉院長。1984年に日本造血細胞移植学会の前身の第7回日本骨髄移植研究会会長、94年に第91回日本内科学会総会会頭と第56回日本血液学会学術集会会長、95年に日本リンパ網内系学会会長をそれぞれ務める。日本血液学会名誉会員、日本臨床病理学会功労会員、日本血栓止血学会功労会員、日本老年病学会特別会員、日本検査血液学会顧問、日本輸血学会特別会員、日本内科学会名誉会員、アメリカ内科学会名誉会員。

柴田昭先生は2021年9月22日に逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 1955年に新潟大学医学部を卒業後、約50年にわたり、血液学の研究と診療を続けました。血液学の研究が細胞レベルから分子・遺伝子レベルへと進化するとともに、造血器腫瘍の治療法の進歩によって患者の予後は劇的に改善しました。私はその変遷の歴史に立ち会い、わずかではありますが、研究者、教育者、臨床医として血液学の発展に貢献してきたと自負しています。

 65歳で大学を定年退官し、市中病院の院長などを務めた後、10年ほど前に現役を引退しました。新潟市内にプライベートオフィスを構えて、週日はそこに“通勤”し、毎日のように届く国内外の医学雑誌やメールに目を通し、最新の医学トレンドを把握するようにしています。5年前に55年連れ添った妻を失いました。それからは早寝早起きを心がけ、三食はすべて自分で作り、ラジオ体操やスクワットなどで体を動かし、毎日5,000歩以上歩くなど、いまどきの高齢者らしい健康を意識した生活を送っています。

2016年先端血液病学セミナーにて 高久史麿先生(中央)、大野竜三先生(左)と。
2016年先端血液病学セミナーにて 高久史麿先生(中央)、大野竜三先生(左)と。

新潟大学教授だった父を追い医師の道へ
東北大への転入学では奨学金巡り一悶着

 私が医師になったことには、新潟大学第二内科教授を長年務めた(昭和9〜23年)父・経一郎が大きく影響しています。父の姿を見ながら育ち、内科医になりたいと思うようになり、1949年に新潟大学医学部に入学しました。兄も同様に医師の道を目指して一足先に東京大学医学部に入り、その後は沖中内科(第三内科)の一員になりました。

 新潟大卒業後は第一内科に入局、鳥飼龍生先生に師事しました。鳥飼先生は一高、東京帝国大医学部をそれぞれ首席で卒業というエリートで、内分泌学が専門です。その臨床講義は素晴らしく、人格的にも温和で、私がどの分野に進むか相談したときには「君のやりたいことをしたまえ」とのアドバイスをいただき、これが私のその後を決める一言になりました。私は血液学に興味があったので、当時2人いた血液内科の先輩の下に付き、臨床と研究に取り組むことにしたのです。

1953年新潟大学での医学生時代
1953年新潟大学での医学生時代

 入局して1年半後の1957年9月に、鳥飼先生が東北大学第二内科教授に転出することになりました。私は鳥飼先生に「付いていきたい」と直訴し、鳥飼先生も「君に付いてきてほしい」と話されたので、東北大の大学院に転入学することに決めました。

 ところが、母が「そんな遠くで暮らすための生活費は出せない」と反対し、兄も私が新潟大を離れ、違う大学で研究生活を送ることに異議を唱えました。それでも私は、当時受けていた日本育英会の奨学金(月1万円)を東北大に移っても受け取れれば何とか生活できるだろうと考え、医学部長に掛け合いましたが「これは新潟大の大学院生である君への奨学金だ」と断られました。

 そこで私は、育英会の会長宛に手紙を書き、何とか奨学金を続けてほしいと訴えました。すると会長から「とにかく東京の本部に来なさい」という返事が来たので、すぐに上京しました。とはいえ新幹線のない時代ですから半日がかりでした。会長に面会したところ「私1人では決められない。理事会を開くので、もう1日待ってほしい」と言われました。結局、東京に2晩泊まり理事会の結論を待つことになりました。結論は「奨学金は学生に付いていくものである」というものでした。これを機に、育英会奨学金の新しいルールができたと聞いています。

顕微鏡もなく試薬は手作りで研究開始
血液学会総会で骨髄線維症について宿題報告

 こうして仙台での下宿生活が始まりました。一人暮らしは生まれて初めてですから、何もかもが新鮮でした。そしてすぐに、奨学金だけでは学費を払いながら暮らしていけないことが分かりました。ところが鳥飼先生は、大学院生がアルバイトすることを許しません。そうはいっても生活するにはおカネが必要ですから、週末にこっそり開業医のところでアルバイトをしていました。

 今では想像できないと思いますが、当時の東北大の第二内科には血液を専攻する人が誰もいませんでした。文字通りゼロからのスタートです。「研究のための設備・機器は準備しておく」という話でしたが、顕微鏡すらありません。そこで前任の教授が使っていたという年季入りの顕微鏡を譲り受けることにしました。

 病院には中央検査部がなかったので、試薬や染色液は一つ一つ手作りしました。本を頼りに血液像、骨髄像の標本も自分で作りましたし、きれいな標本を作るノウハウも覚えました。検鏡(血液像の見方)も独学でした。何でも自分でやらなくてはなりませんでしたが、これらの経験の積み上げは、長きにわたり研究を進めていく上で大きな糧となりました。また、すべて自分でやったことで、研究の本当の面白さが分かるようになりました。1960年に大学院を修了し学位を得ることができました。そしてそこへ4人の大学院生が入ってきて、ようやく研究室の体制が整いました。

1957年東北大学で血液学を始めた頃
1957年東北大学で血液学を始めた頃

 私が血液学の研究を進めていく上で大きな転機となったのが、1962年に熊本で開催された第37回日本血液学会総会で発表した「著明な脾腫を伴った骨髄線維症と思われる一例」という演題です。これは、骨盤腔に達する巨大な脾腫を持った1人の患者さんについての考察でした。

 最初はマラリアかと思いましたが、マラリア原虫は見つかりませんでした。ほかに腹壁静脈怒張と食道静脈瘤という門脈圧亢進症状、貧血と白血球増多が認められました。末梢血液像では幼弱白血球と赤芽球、少数の巨核球の出現がありました。慢性骨髄性白血病(CML)も疑いましたが、CMLとは明らかに病像が異なります。当時はまだPh染色体検査などは導入されていません。そこで次に骨生検を行なったところ、骨梁の肥厚と線維化が認められ、脾臓と肝臓の生検では髄外造血の所見がありました。これは骨髄線維症と言われるものではないかと考えましたが、自信はありませんでした。それで演題名にも「思われる」と入れたわけです。

 当時の血液学会では、学会主幹の京都大学の天野重安先生が常に会場最前列に陣取り、舌鋒鋭く批判するため、私は恐る恐る発表しました。発表は何とか無難に終えましたが、翌日、天野先生に、翌年の第38回日本血液学会総会の宿題報告「骨髄線維症」の演者の1人に指名されたのです。青天の霹靂でした。宿題報告は今で言う招請講演に当たり、あるレベル以上の成果を上げた研究者が担当するのが常識と考えられていたからです。

 まず、全国のインターン指定病院に往復はがきで、骨髄線維症を疑う症例があるかどうかを聞きました。骨髄線維症という病名が通じる時代ではなかったので、はがきに主要症状を列記し「このような症状のある患者さんはいませんか」と問い合わせたのです。その結果、集まった症例の中から間違いなさそうな52例を得ることができました。そして、生存例については自分の目で確かめたいと思い、貯金をはたいて北海道から九州まで足を運び、それぞれの病院に直接出向きました。お金はなくなりましたが、多くの知己を得ることができました。これは私にとって無形の財産となりました。

 最終的に52例を症状別に4型に分類して宿題報告で講演し、天野先生からの直接の批判もなく無事乗り切りました。ところが、数カ月後の日本血液学会雑誌の編集後記、これは天野先生が執筆されていた記事ですが、そこには「講演者は該博円満な知識を見せようとし、現在の学問の知識の欠けたところを(科学においてそれは伸びようとするところであるが)くるんで聴衆から遠ざけ、辻褄の合うところを見せようとする傾向があるのではないか。前線に出れば危険な綱渡りもせねばならないし、落ちることもある。しかしそこを渡る者があって前線に立つ意義があるのである……」と書かれていました。私を名指しした記述ではありませんが、自分の姿勢をズバリ指摘された気がしました。私はこの宿題報告の講演をきっかけに研究者の道を歩むことを決め、骨髄線維症は私の一生の研究テーマになりました。

〈後編では、秋田大学血液内科の立ち上げのときのことや1994年に内科学会の会頭と日本血液学会学術集会の会長の両方をお務めになったときのエピソードなどについてお話しいただきました。〉