血液専門医と医療関係者のための情報サイト「ヘマトパセオ」

この人に聞くThe Experts

造血器腫瘍の研究と治療の進歩を先導
東北大学、秋田大学の血液学の礎を築く(後編)

柴田昭(新潟南病院 名誉院長、新潟大学 名誉教授)

柴田昭(新潟南病院 名誉院長、新潟大学 名誉教授)

柴田昭氏

1930年新潟県生まれ。1955年新潟大学医学部卒業。56年同大大学院医学研究科入学。60年東北大学大学院医学研究科修了、同大医学部附属病院助手。70年秋田大学医学部助教授。73年11月〜74年10月まで文部省在外研究員として米国とオーストリアに出張。75年秋田大学医学部教授。77年新潟大学医学部教授に。90年新潟大学医学部附属病院病院長。92年新潟大学医学部長。96年新潟大学名誉教授、立川綜合病院病院長、北里大学医学部客員教授に。98年立川メディカルセンター総長。2001年新潟南病院名誉院長。1984年に日本造血細胞移植学会の前身の第7回日本骨髄移植研究会会長、94年に第91回日本内科学会総会会頭と第56回日本血液学会学術集会会長、95年に日本リンパ網内系学会会長をそれぞれ務める。日本血液学会名誉会員、日本臨床病理学会功労会員、日本血栓止血学会功労会員、日本老年病学会特別会員、日本検査血液学会顧問、日本輸血学会特別会員、日本内科学会名誉会員、アメリカ内科学会名誉会員。

秋田大学の血液内科立ち上げに取り組む
7年後に新潟大出身で初の第一内科教授に

 気が付けば、東北大第二内科では血液グループが最大派閥になり、私はその間に講師になっていました。そして1970年に新設された秋田大学の助教授に着任しました。鳥飼先生から、秋田大学で新しく血液内科を立ち上げたいという相談を受けたと聞き、「研究は続けられる環境だ」と兄に説明したところ、賛成してくれました。秋田大学にはインターン2人と一緒に向かいました。

 秋田は血液内科の“処女地”でした。早速、県内の主要な病院の検査部に「血液疾患を疑う症例があれば、標本と一緒に紹介してほしい」と呼び掛けたところ、次々と症例が積み上がりました。それらの症例を解析し、新しいリンパ腫を見つけることもでき、解析結果は毎年血液学会総会で報告しました。

 ただ、当時の秋田大学では教授と助教授は同格とされていたのですが、助教授の5年間はいろいろな苦労がありました。1975年に教授となって2年間務めた後、母校の新潟大学から声が掛かり、77年に新潟大学第一内科の教授に着任しました。第一内科の歴代の教授はすべて他大学の出身で、私が初めての新潟大出身の教授でした。

 第一内科には、血液のほか循環器、内分泌代謝があり、私は教授としてすべての分野の講義を担当しました。循環器や内分泌代謝の分野では、私が学んだ時代から検査法や治療法など大きく変わっており、若い先生方に学びながら、一生懸命講義しました。その臨床講義の内容は『診断と治療』に15年間連載しました。これは92年に医学部長になるまで続けました。

1997年初孫と一緒に(ボストン、レーガン空港にて)
1997年初孫と一緒に(ボストン、レーガン空港にて)

 また、1982年に国立大学では初となる高密度無菌治療部を設置し、造血幹細胞移植を始めました。その実績もあって、83年には第7回日本骨髄移植研究会を会長として主催しました。一方、79年頃から「新潟シンポジウム」を3年おきに開催しました。これは、血小板放出反応、白血病の新しい診断技術の問題点、血液疾患のバイオテラピーなど毎回テーマを決め、全国の血液内科医の中から演者を指定し、議論するというものです。押味和夫先生、高久史麿先生、青木延雄先生ら、当時の気鋭の先生方が多く集まり、その内容は医歯薬出版から毎回書籍としてまとめられ、発行されました。

 1990年に医学部附属病院長となり、その後、医学部長になってからは、血液内科の研究や診療の多くは次世代の若い先生方に任せるようになり、一方で周囲に担がれる神輿に乗る感じで、学部の方向性の策定、学内外、医学部内の折衝や調整などに力を注ぎ、96年に定年退官しました。

同じ年に内科学会と血液学会を新潟で開催
冷凍食品を“チン”するような研究はまずい

 新潟大第一内科にいた1994年4月に、日本内科学会会頭として、新潟市で初めての内科学会総会・講演会を開催しました。会頭講演の座長は鳥飼先生にお願いして「21世紀の内科学」と題し、高齢化社会の到来と内科学、死の医学としてのターミナルケアや安楽死、遺伝子研究と内科学、内科学の教育・研究システムの再編成の必要性など、当時予測し得る限りの次世紀の内科学の姿について、私なりの考察を述べました。

 新潟市内は宿泊施設が少なく、新幹線で東京から日帰りする参加者もいると考え、運輸大臣や国鉄(いずれも当時)に、内科学会参加者専用の臨時列車を走らせてほしいと直接お願いし、会期中は朝夕それぞれ2〜3本の臨時列車が走りました。それでも、参加者には多くの不便をかけたなと今も思っています。ただ、東京から参加した先生から「桜が満開で美しかった。今年は花見が2回できた」と聞き、うれしく思いました。

 翌月の5月には、同じく新潟市で第56回日本血液学会学術集会を開催、会長を務めました。数年前から2つの学会の準備を開始し、非常に多忙な日々を送りましたが、新潟が内科学の、そして血液学の研究・診療拠点の一つであることを全国の関係者に知ってもらう機会となりました。

1994年第56回日本血液学会学術集会で会長を務めたときの懇親会 刈米先生(右端)、大熊先生(右から2人目)、私(左から2人目)
1994年第56回日本血液学会学術集会で会長を務めたときの懇親会
刈米先生(右端)、大熊先生(右から2人目)、私(左から2人目)

 血液学に限らないと思いますが、研究には決まった答えはありません。自分が決めた目標に向かって進むには、何が必要なのか、そのために何をしなくてはならないのか、一つ一つ考え、自分でやることが大切です。かつては、塗抹標本を作るためにカバーグラスをどの角度で引くか、試薬や染色液はどうやって調合するかなど、その都度考えていました。今はその仕事の多くは検査技師が担い、採取した検体を検査室に送れば結果が自動的に戻ってきます。染色体検査や遺伝子検査もパッケージになっています。

 しかし、それは冷凍食品を電子レンジでチンしているようなものだ、と私は考えています。誰がやっても同じような味(結果)になりがちで、微妙な味の違い(研究の辻褄の合わないところ)が分からなくなっているのではないか。かつて天野先生に指摘されたように、辻褄の合わないところが「現在の学問の知識の欠けたところ」とは疑わず、都合のよい結果だけを集めて、危険な綱渡りをしない、これまでの通説や権威の後追いのように見えるのです。これでは、研究の前線に立つことの本当の面白さは分かりません。

 最後の仕上がりを想像して自分で材料をそろえ、味付けを考え調理する料理と同じような姿勢が研究にも必要です。仕上がりが想像と違っていたら、何が原因だろうと考え、改めて挑戦するのです。他人任せにせず、いろいろなことを自分でやって、その経験を積み上げてください。最近の血液内科の若手医師には元気がない、という話をときどき聞きます。研究の最前線に立ち、これまでの常識や標準に挑戦し、世界に通用する成果を上げてほしいと願っています。

2004年東北の会(柴田先生を囲む会) 後列左から千葉滋先生、三谷絹子先生、押味和夫先生、前列左から佐々茂先生、私、森真由美先生
2004年東北の会(柴田先生を囲む会)
後列左から千葉滋先生、三谷絹子先生、押味和夫先生、前列左から佐々茂先生、私、森真由美先生