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この人に聞くThe Experts

日本医大の血液内科をゼロから立ち上げ
33年でわが国有数の実績を誇る診療科に(前編)

檀和夫(了徳寺大学 名誉学長・健康科学部長)

「この人に聞く」のシリーズ第13回は、了徳寺大学名誉学長の檀和夫氏にお話をうかがいました。わが国屈指の実績を持つ日本医科大学血液内科が創設されたのは1980年のこと。檀氏は創設メンバーとして東京医科歯科大学から日本医大に移った3人の医師のうちの1人です。新設の血液内科をどのように育てていったのでしょうか。「医師は、臨床でも研究でも常にトレーニングを積むことが重要。それに加えて幅広く知性を磨くことを心がけてほしい」と檀氏は話します。

檀和夫(了徳寺大学 名誉学長・健康科学部長)

檀和夫氏

1947年東京都生まれ。73年東京医科歯科大学医学部卒業後、同大第一内科勤務。74年東京都立墨東病院勤務、77年医科歯科大第一内科医員。80年日本医科大学第三内科助手、87年同大講師、90年同大助教授。95年4月日医大付属病院血液内科部長、同年10月同大内科学第三教授、2001年同大内科学講座主任教授に。13年日本医科大学名誉教授、同年4月了徳寺大学健康科学部教授に。17年同大学長、20年4月同大名誉学長に。日本臨床血液学会(第132回例会会長)、日本血液学会(第72回学術集会会長)、『臨床血液』編集委員長(2008〜13年)、厚生労働省医師国家試験委員、同省「抗がん剤等による健康被害の救済に関する検討会」委員などを務める。

 1973年に東京医科歯科大学を卒業して内科医師となった後、1980年に医科歯科大の野村武夫先生、厨信一郎先生と3人で日本医科大学の血液内科を創設しました。2013年に退官するまでの33年間、日本医大を都内で1番、日本で有数の血液内科とすることを目指して努力してきました。その結果、わが国屈指の血液内科として多くの診療実績や研究業績を重ね、有為な人材を教育、輩出してきたと自負しています。もちろん多くの優秀な仲間や後輩に恵まれてこそ成し遂げられたことです。

 現在は、了徳寺大学でメディカルスタッフの育成に取り組んでいます。血液内科の病棟はハードな職場で、有能な医師だけでなく、有能な看護師も必要とされることを実感してきたからです。看護師をはじめとするメディカルスタッフの育成を通して、今後も血液内科の診療に貢献していきたいと考えています。

2015年第77回日本血液学会学術集会(会長:中尾眞二先生)の懇親会にて、諸先輩方と。
2015年第77回日本血液学会学術集会(会長:中尾眞二先生)の懇親会にて、諸先輩方と。

医科歯科大での研修が医師としての原点
2人の白血病患者と出会い血液内科へ

 私の医師としての原点は、医科歯科大の卒業後に入局した第一内科で受けた4年間の教育です。当時の第一内科には内科9領域のうち、循環器内科、消化器内科、呼吸器内科、血液内科、糖尿病・内分泌・代謝内科、膠原病・リウマチ内科の6領域があり、学内で一番大きい内科でした。臨床研修ではこれに感染症を加えたすべての領域を学ぶことができました。

 第一内科のポリシーは、「専門外のことは分からない、という情けない医師にはなるな」「内科の全てを診ることができる、しかも全てで一流の内科医になれ」というものでした。私はどの領域でも一流となれるよう努力し、それは4年間の研修を終えたのち今日まで続けています。まさに、私のバックボーンになっています。

 第一内科ではどの領域にもそれぞれ興味を惹かれ、血液内科のほかには特に循環器内科が面白いと思っていました。血液内科の道に進んだ理由はいくつかあります。まず、第一内科教授を務めていたのが当時血液内科分野の“大御所”の小宮正文先生だったことで、少なからぬ影響を受けました。また、血液内科には中堅どころの医師がそろっており、活気があることに魅力を感じていました。

 最終的に私の背中を押したのは、研修中に出会った2人の白血病の患者さんです。1人は男子大学生で頭の良い人でした。急性白血病で入院し、自分の病気のことをよく分かっていました。でも病気には負けたくないという強い気持ちを抱き、亡くなる直前まで「負けないぞ」と叫びながら闘病を続けました。もう1人は50代の男性で住職でした。慢性骨髄性白血病(CML)で入院しました。チロシンキナーゼ阻害薬のない当時、CMLは100%死に至る病気で、そのことは本人も分かっていました。住職ならば煩悩は断ち切り、悟りの境地にあるのではと私は勝手に思い込んでいました。ところが、病気の説明をした後、精神的に追い詰められ、病棟の階段から飛び降り亡くなってしまいました。ショックでした。

 これほど人を苦しめる白血病を何としても治療したいと強く思い、私は血液内科の医師になることを決意したのです。血液内科に入っても第一内科のポリシーは貫かれており、内科全般の一流の知識と技術を身に付けるために、医局全体として臨床と研究のトレーニングが続けられました。血液内科では小宮先生、野村先生らにいろいろと教わりながらトレーニングを受け、「血液領域だけの専門、リーダーになるな。医師は生命と健康を大切にする。そのためには考えることがたくさんある」と言われてきました。これも、今に通じる私の信念の一つです。

東京医科歯科大学時代。後ろ姿は、当時第一内科教授の小宮正文先生。
東京医科歯科大学時代。後ろ姿は、当時第一内科教授の小宮正文先生。

日本医大に移り人生が大きく変わる
外来・病棟・検査のシステム作りに邁進

 医科歯科大血液内科で診療を続けてきた私に大きな転機が訪れました。1980年、当時、助教授だった野村先生、厨信一郎先生と3人で日本医大に移ることになったのです。日本医大は歴史のある大学ですが、血液内科はありませんでした。「血液内科を創りたい」との日本医大の熱意に応え、野村先生が第三内科に招聘され、私と厨先生に「一緒に行かないか」と声が掛かりました。

 外来も病棟も研究室もないゼロからのスタートでしたが、私たちは「きちんとした診療科を立ち上げ、大きくして、一流になろう」と結束しました。新しい診療と研究のシステムを作るには、ヒト、モノ、カネという資源が不可欠です。幸い、大学が潤沢な予算を確保していたのでカネで困ることはほとんどありませんでした。とはいえ、例えば外来診療はどういう体制にするか、病棟には病室や病床をどれだけそろえるか、それに見合う看護師らをどう確保、教育するか、そして外来、病棟、検査室をどう連携させるかなど、全てが手探りでした。

 また、当時から日本医大には研究棟がありましたが、目の色を変えて研究に取り組むという雰囲気があまりありませんでした。そこで、医科歯科大で取り組んでいた研究を再開するために研究室を確保し、実験に必要な全ての器材を買いそろえ、動物舎にはマウスを飼い、基盤を整えました。

 実は、私は文章を書くことが好きで、『臨床血液』の編集委員長を5年続けたのも文章好きが下地になりました。文章を書くという作業は、新しいことを作り上げることに他なりません。ですから、ゼロから新しい診療、研究、教育のシステムを立ち上げることは少しも苦痛ではなく、むしろわくわくしながらの毎日を送りました。

 診療と研究の枠組みができても、人材がいなくては前に進みません。私たちは医学部での授業を通じて、学生に血液内科の面白さを教えることに力を入れました。特に臨床実習では、血液学の奥深さや興味が尽きないこと、診療でも研究でもテーマには事欠かないこと、何よりやりがいのある領域であることを伝えました。学生だけの研究グループを作り、1年間の実習を通じて得た内容をまとめて発表する機会も設けました。その中には日本血液学会の学術集会に採択された報告もあります。

 こうした血液学の面白さを伝え、体験させる地道な積み重ねを続けるうちに、“出来がいい”学生が興味を持つようになり、やがて血液内科には、少数ですがその学年のトップレベルの学生が入るようになりました。こうして少しずつ優秀な人材が集まり、あらゆる血液疾患の診療を行ない、臨床研究も進められるような体制となり、「都内で1番、日本で有数」という目標の実現が近付いてきました。

1990年日本血液学会のテニス同好会。高久史麿先生(前列右から2人目)や溝口秀昭先生(前列中央)らと。(後列右から3人目が私)
1990年日本血液学会のテニス同好会。高久史麿先生(前列右から2人目)や溝口秀昭先生(前列中央)らと。(後列右から3人目が私)

〈後編では、臨床血液学会と日本血液学会の統合のお話や若手ドクターへのメッセージなどをいただきました。〉