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この人に聞くThe Experts

がん免疫療法の可能性を“暗黒時代”から追究
治療成績のさらなる向上を目指し研究を続ける(前編)

安川正貴(愛媛県立医療技術大学 理事長・学長)

「この人に聞く」のシリーズ第12回は、愛媛県立医療技術大学理事長・学長の安川正貴氏にお話をうかがいました。大学卒業後まもない1980年に「がん免疫」に興味を抱いたものの、研究対象としては長く日陰の存在でしたが、1991年にがん関連抗原が報告されて以降、世界中で研究が始まりました。安川氏も研究に本腰を入れ、すぐにBCR-ABL特異的T細胞株を樹立するなど、がん免疫療法の礎を築きました。安川氏は「今、治すことができない病気の治療成績を上げることが、医師、研究者の務め」と話します。

安川正貴(愛媛県立医療技術大学 理事長・学長)

安川正貴氏

1952年香川県生まれ。71年愛媛県立松山東高等学校卒業。77年秋田大学医学部卒業後、愛媛大学医学部附属病院医員、79年同助手。79年9月〜80年8月まで東京医科歯科大学難治疾患研究所に国内留学。82年9月~83年8月まで米国・ミネソタ大学免疫生物学研究所留学、同年9月〜84年9月まで米国・バージニアメイソン研究所で研究。87年4月愛媛大学医学部附属病院講師、91年愛媛大学医学部助教授を経て2005年10月に同大内科学第一教授に。09年同大医学部附属病院副病院長、11年同大大学院医学系研究科長・医学部長、15年同大副学長・国際連携推進機構長。18年愛媛大学退官(定年)、同大プロテオサイエンスセンター特命教授に。20年4月より現職。日本血液学会(名誉会員、第4回国際シンポジウム会長)、日本感染症学会(名誉会員、第88回学術講演会会長)、日本がん免疫学会(名誉会員、第18回総会会長)、日本血液疾患免疫療法学会(名誉会員、第2回学術集会会長)、日本内科学会(功労会員、四国地方会会長)などを務める。

 この十年足らずで、免疫チェックポイント阻害薬や、キメラ抗原受容体(CAR)T細胞などの遺伝子改変T細胞の驚くべき成果で、がん免疫療法はがん治療の中心になってきました。私ががん免疫の研究を開始した頃は、がん免疫学は暗黒時代と言っていいほど見向きもされない領域でしたから、現在の発展ぶりには隔世の感があります。

 私は幸運にも多くの立派な指導者と素晴らしい共同研究者や研究仲間と一緒に、がん免疫の研究に取り組んできました。そのおかげで、BCR-ABL特異的T細胞クローンの樹立や、WT1特異的細胞傷害性T細胞(CTL)クローンの樹立などの実績を積み、臨床成績の向上に貢献することができました。臨床、研究の第一線からは退きましたが、研究に対する熱意は失せていません。これからはメディカルスタッフの教育に取り組む一方、引き続き研究の後方支援にも力を注ぐつもりです。

愛媛から秋田大学へ入学
卒後1年目で英語原著論文が採択され大きな喜び

 1977年に愛媛大学医学部第1内科の医員となって以来、国内留学1年、海外留学2年の期間を除いて、この3月までの43年間、私は、愛媛大学に勤務しました。ただ、大学は秋田大学医学部に進みました。第1希望の国立1期校に落ち、新設まもない秋田大学医学部を受験することになったからです。まだ卒業生が出ていない2期生でした。

 当時の秋田大学には、血液学の著名な先生が揃っていました。内科には柴田昭先生、小児科にはチェディアック・東症候群の発見者として高名な東音高先生、産科婦人科にはDICなど血液凝固の大家である真木正博先生、そして病理学にはリンパ網内系がご専門の綿貫勤先生と、錚々たるメンバーです。

 特に、柴田先生の臨床講義は魅力的で、先生の講義を聴いて私は内科学を志すことに決めました。当時の臨床講義は、患者さんが階段講堂に連れてこられて、学生の前で学生の代表によって診察を受けるというものでした。柴田先生は血液学が専門でしたが、当時はナンバー内科の時代であり、様々な患者さんが臨床講義で診察を受けていました。柴田先生は常々「内科医は特定の臓器に偏ることなく全ての疾患を診ることができないといけない」とおっしゃっていました。私は、柴田先生に最初の弟子と言われて、今でも可愛がっていただいています。

柴田昭先生の臨床講義風景(1976年秋田大学)
柴田昭先生の臨床講義風景(1976年秋田大学)
柴田昭先生(前列左)とご一緒に(2018年3月新潟にて)
柴田昭先生(前列左)とご一緒に(2018年3月新潟にて)

 卒業と同時に私は故郷に戻り、やはり開設まもない愛媛大学第1内科の医員となりました。第1内科のスタッフのほとんどは、九州大学第1内科から来たスタッフでした。秋田大で柴田先生の薫陶を受けたこともあり、また血液学では興味深い研究結果が出ていたことから、私は血液グループに出入りしていました。当時の愛媛大学第1内科では、九州大学で行なっていたヘモグロビン異常症の人類遺伝学的研究を継続していました。

 当時は、外来患者全てのヘモグロビン異常症のスクリーニングを行なうという大変根気のいる研究をしていました。そして偶然、研修1年目に担当した患者さんがHbA2完全欠損(δサラセミア)であることが分かりました。世界で2例目の発見でした。ちなみに第1例目は研究室主任の太田善郎助教授が九大時代に発見していました。太田先生から「ヘモグロビン異常症の研究をやらないか」と声がかかり、病棟での診療が終わった夕方から毎日研究室に入り、δサラセミア患者さんの生化学的解析に没頭しました。その後、愛媛県で合計5家系のδサラセミアが発見され、それを英語論文で発表することになりました。太田先生に全面的に校正してもらった論文が『Br J Haematol』に1回でアクセプトされた時は本当に嬉しく、卒業1年目から世界的な研究の場に身を置くことができたと深い感慨を覚えました。

医科歯科大への国内留学で免疫学を学ぶ
ミネソタ大ではT細胞クローニング技術を体得

 2年間の臨床研修を終えたある日、感染症の専門家である小林讓教授に呼ばれ、「最近、免疫遺伝学という面白い学問があり、米国でこの分野の最先端の研究をしていた笹月健彦先生が東京医科歯科大学に戻ってきたので、そこで勉強してこい」と言われました。何も分からないまま、同大難治疾患研究所人類遺伝学部門に国内留学しました。

 笹月先生は当時30代後半で、HLAがヒト免疫応答遺伝子であることを『nature』に報告、若手研究者のホープでした。笹月研には、全国から精鋭の大学院生が集まり熱気が溢れていました。熊本大学の西村泰治先生、東京医科歯科大学の太田伸生先生にはいろいろとご指導を受けました。

 ここで私は、ヒトT細胞応答のHLA拘束性についての研究に没頭しました。毎朝まず自分の採血をして、それを材料に実験をするので腕に採血の痕が絶えず、その痕はいまだに残っています。笹月先生は、国内外から最新情報を集め、日々熱いラボミーティングが繰り広げられました。東京医科歯科大学での研究は約1年間でしたが、私は強い刺激を受け、研究マインドが大いに養われた貴重な経験となりました。

東京医科歯科大学へ国内留学していた頃(前列左から2人目が私、後列右端が笹月健彦教授)
東京医科歯科大学へ国内留学していた頃(前列左から2人目が私、後列右端が笹月健彦教授)

 愛媛大学に戻るにあたり、笹月先生から「これから何を研究するのか」と尋ねられたので、「がん免疫に興味があります」と答えたら、「あれは免疫学ではない」と言われました。当時の免疫学は抗原特異性とMHC拘束性が根底にあり、がん免疫は現象だけの深みのない学問とされていました。実際、日本免疫学会では、がん免疫のセッションは一番端の小さな会場でひっそりと行なわれていました。笹月先生には、標的抗原が目に見えるウイルス感染免疫をやったらどうかとアドバイスされました。

 愛媛大学では小林教授と相談し、持続感染系ウイルスが面白いということで、単純ヘルペスウイルス(HSV)特異的細胞傷害性T細胞誘導と機能解析というテーマで研究を開始しました。研究を指導してくれる先輩がおらず、ウイルスの扱いは微生物学教室の園田俊郎先生(元鹿児島大学ウイルス学教授)に教えてもらいながら、ほとんど全て独学で行ないました。そして東京で学んだ知識と技術も駆使して、何とか学位論文をまとめることができました。

 研究の面白さが分かり、臨床とのかけ持ちも苦にならないと感じてきた頃、ある日突然、笹月先生から電話があり、ミネソタ大学で日本人のポスドクを探しているので行ってみないかとのお誘いがありました。折角の機会なので是非行きたいと伝え、ミネソタ大学のJoyce Zarling先生と電話インタビュー後、すぐに話はまとまり、1982年9月からミネソタ大学に海外留学することになりました。

 上司であるJoyce Zarling先生は、白血病に対するヒトCTL樹立を世界で最初に報告した研究者として有名で、一連の仕事を毎年のように『nature』に発表していた新進気鋭の研究者でした。私はここで、がん免疫の研究ができると思ったのですがZarling先生から「あの仕事はもう止めた」と言われ、がっかりしたことを覚えています。彼女も標的抗原が明らかでない腫瘍免疫学に限界を感じていたのだと思います。

 当時のミネソタ大学はT細胞クローニングの分野で世界の最先端を走っており、この技術を学べたことはその後の研究に大いに役立ちました。Zarling先生の興味はNK細胞に傾いていたので、この研究手法を用いてヒトNK細胞クローンを樹立して、その多様性を検討する研究を開始しました。NK細胞活性化のために、私が日本で用いてきたHSVを刺激に用い、刺激されたリンパ球をクローニングし、細胞傷害活性のあるクローン細胞を多数樹立しましたが、どれもT細胞であり、しかもそのほとんどが意外にも当時ヘルパーT細胞のマーカーとされていたCD4陽性でした。また、HLA拘束分子はクラスⅡ分子であることも判明しました。当時は、CD4とCD8はT細胞を機能的に規定する分子として認識されていたのです。ここで学んだヒトT細胞クローン樹立技術は、その後の私のがん免疫研究の基本になり、大変有意義な海外留学となりました。そして1984年に愛媛大学に戻りました。

〈後編では、がん免疫で世界的に大きな進歩があったことをきっかけに、ようやく興味を抱いていたがん免疫の基礎研究にシフトし、多くの特異的T細胞クローンを樹立したお話をしていただきました。〉