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この人に聞くThe Experts

白血病の薬物治療の“本流”を貫き50年
JALSGを設立、研究レベル向上に貢献(後編)

大野竜三(愛知県がんセンター 名誉総長)

大野竜三(愛知県がんセンター 名誉総長)

大野竜三氏

1940年岐阜県中津川市生まれ。64年名古屋大学医学部卒業後、聖路加国際病院インターン。65年名古屋大学第一内科入局。66年米国・ダラスのワドレー研究所血液内科フェロー、67年米国・ヒューストンのMDアンダーソンがんセンター化学療法科フェロー。69年に帰国し、75年名古屋大学検査部助手、83年同第一内科講師を経て89年に名古屋大学分院内科助教授。93年浜松医科大学第三内科教授に就任。2000年愛知県がんセンター病院長、03年同センター総長、05年に名誉総長に。1987年にJapan Adult Leukemia Study Group(JALSG)を設立し、2005年まで代表を務めたほか、厚生労働省の数多くの班研究の班長に就いた。

 戦勝国である、米国、英国、フランスのみならず、敗戦国の西ドイツ、さらにはイタリアまでもが、化学療法や骨髄移植療法について、全国規模のグループ研究による百~数百例の臨床試験の成果を次々と発表し、その質の高さと成績には目を見張るものがありました。数十例の臨床試験結果を発表するため、初めて白血病国際シンポジウムに参加した私は、日本の研究がいかに立ち遅れているかという現状を見せつけられ、愕然としました。

 そこで、このシンポジウムに参加していた長崎大学の朝長万左男先生らに声を掛け、学会最終日の夕方、ローマ市内のレストランに集まり、この遅れを取り戻すには日本でも全国レベルの共同研究グループを作らざるを得ないと語り合いました。これがJALSGの第一歩です。帰国後、日本大学の大島年照先生を加えた3人が発起人となって、白血病治療に力を入れている施設に呼び掛け、1987年4月に14施設によるJALSGが組織されました。

 発起人の3人はいずれも当時40代半ばと若く、日本で初めての成人白血病の共同研究グループを成功させることができるかどうかは不安でした。相談した上司や先輩の多くは「時期尚早」と意見しました。しかし、「いま始めなければ世界からますます取り残されてしまう」と強く思い、首を洗って覚悟しつつ、設立にこぎつけました。

国際的一流誌に研究の成績が掲載
世界が評価する臨床研究の継続を

 1988年に私が運よく厚生省がん研究助成金の白血病研究班の班長に任命され、班員・班友がJALSGに参加したため、23施設に増えました。追風も吹きました。一つは白血病に対する顆粒球コロニー刺激因子(G-CSF)の使用、もう一つはレチノイン酸(ATRA)によるAPLの分化誘導療法です。

 白血病症例でG-CSFを使用することに、当時は反対者が多い時代でした。しかしながら、私は感染症死を減らすことができるに違いないと期待し、キリンビールが世界に先駆けて開発したG-CSFによるAMLの化学療法後のランダム化比較研究を行ない、G-CSFの有効性を確認しました。結果は1990年に『N Engl J Med』誌に掲載され、本誌に掲載された最初の日本発の治療研究論文となりました。

 ATRAのAMLに対する有効性については、1988年に上海第二医科大学グループが23例のAPLで96%のCRを得るという驚くべき成績を『Blood』誌に報告しました。当初はその余りにも高い有効率のために、十分信頼されていたわけではありません。その後、1990年6月に名古屋で開催された日中血液学会合同会議で、Wang教授が76例の初発・再発APLで88%のCRを得たとの報告をしました。

 私は試みる価値はある治療法だと確信し、Wang教授から薬の供与を受け、再発・難反応性のAPLを対象とした臨床研究を開始しました。1、2例目は無効判定となりましたが、日大の大島先生のところでATRAを投与された3例目がCRに到達しました。JALSGの基幹施設の一つである日大での成功を機に、またたく間に100例以上が集積され、驚異的な有効性を示す治療法であることが確認されました。この経験に基づき、1992年から、スイスのHoffman La Roche社から私自身が個人輸入したATRAを用いて、未治療例APLを対象とした世界初のprospective studyであるAPL92 studyを開始しました。JALSGに参加すればATRAが使用できるという思惑もあってか、この頃より参加施設が急増し、50施設を超えました。

 APL92 studyの中間報告は1995年に『Blood』誌に掲載され、世界の注目を集めました。他にも、93年に『Cancer』誌にJALSG-AML 87 studyの結果が、94年には『Blood』誌にAMLでのG-CSFのプライミング効果をみた二重盲検研究の結果が、95年には『Blood』誌にCMLにおけるインターフェロンとブスルファンの無作為比較研究の成績などが次々と発表されました。

 日本の治療研究の成績が世界の一流誌を通して発信され、総説やメタアナリシスにも引用されるようになったのです。この事実は、日本の若手臨床研究者に勇気と自信を与えたものと信じています。そしてJALSGに参加して自らもエビデンス創生に貢献しようとする臨床研究者、特に若手医師が増え、JALSG参加施設数は確実に増加しました。JALSGは2019年からNPO法人になり、現在、施設会員が171施設、準施設会員が50施設の計221施設が参加しています。

1993年 Wang ZhenYi教授(左)とLaurent Degosパリ大学教授(右)
1993年 Wang ZhenYi教授(左)とLaurent Degosパリ大学教授(右)
1993年 Wang ZhenYi教授(中央)の後継者であるChen Zhu教授(右から2人目)と同夫人Chen SaiJuan教授(一番右)らと。Chen Zhu教授は胡錦濤主席時代に衛生大臣を務めた。
1993年 Wang ZhenYi教授(中央)の後継者であるChen Zhu教授(右から2人目)と同夫人Chen SaiJuan教授(一番右)らと。Chen Zhu教授は胡錦濤主席時代に衛生大臣を務めた。

 組織の拡大がもたらした功績の一つに、日本全国の白血病治療レベルを向上させたことがあります。EBMという概念のなかった時代から、JALSGはエビデンス創生を目指した臨床研究を進めてきました。日本人患者さんを対象に日本の医師が日本の医療システムの中で得た成績が、日本人患者さんを治療する際に最も信頼できるエビデンスとなることは確かです。これは白血病に限ったことではありません。

 最近、私が心配しているのは、白血病の臨床研究も含め、日本の医学研究、科学研究が下火になりつつあることです。1990年代半ば〜2000年代初めにかけてがピークで、そこから世界の後塵を拝することが多くなったように感じています。世界と伍して研究を進めていくためには、優秀な人材だけでなく、組織力、財政力、システム力が必要です。「それは日本では難しい」と諦めないでほしいのです。現在の環境で難しければ、思い切った改革を行なうなどの変革が必要です。世界が注目し、評価する臨床研究の成果を日本から発信していくことを期待しています。