血液内科医と核なき世界を訴える社会活動の二足のわらじ
被爆者白血病の診療と自らの原爆体験が原動力に(後編)
朝長万左男(長崎大学 名誉教授、恵みの丘長崎原爆ホーム診療所 所長)
2019.07.18
朝長万左男(長崎大学 名誉教授、恵みの丘長崎原爆ホーム診療所 所長)
1968年長崎大学医学部卒業。同年長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設(現・長崎大学原爆後障害医療研究所)血液内科(原研内科)に入局。以来、40年以上にわたり血液内科医として被爆者医療および白血病の研究に取り組む。原研内科講師、助教授を経て90年同科教授に。2009年日本赤十字社長崎原爆病院院長。14年より純心聖母会恵みの丘長崎原爆ホーム診療所所長。核兵器の非人道性に関する国際会議日本政府代表、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)国際副会長なども務める。現在、外務省の「実質的核軍縮を推進する賢人会議」メンバーとして活動中。
血液学の黎明期から今日までの発展を経験
日本血液学会と日本臨床血液学会の統合を舞台裏で支える
第4回国際白血病治療シンポジウムでは、米国だけでなく、西ドイツ、英国、フランス、イタリアなど欧州各国が、全国規模のグループ研究による数百例の化学療法や骨髄移植の成績を発表していました。いずれも質が高く、成績の良さに驚かされる一方、30〜40例というわが国の報告内容が貧弱であることを痛感しました。
シンポジウムの後、すぐに大野竜三先生が音頭を取り、全国レベルの成人白血病治療共同研究グループであるJapan Adult Leukemia Study Group(JALSG)を設立しました。これがわが国の白血病治療が世界に認められるようになった礎となりました。
当初は14施設でスタートしたJALSGですが、現在の参加施設は200施設以上になりました。同一プロトコールで数百例から1,000例の臨床試験を行なうと3〜4年で結果が出るようになり、白血病の治療成績は急速に向上していきました。JALSGによって築き上げられた白血病治療のエビデンスは、日本人にとって重要であるとともに、国際的にも重みのあるエビデンスとして認められるようになっていきました。
さて、私が原研内科教授に就任した90年は、わが国の骨髄移植の黎明期でした。骨髄バンクが設立され、その後、急速に全国で行なわれるようになり、その治療成績は年々向上していきました。九州大学では原田実根先生が積極的に骨髄移植を行ない、原研内科でもUCLA骨髄移植センター留学から帰国した栗山一孝先生が最初の骨髄移植症例を手がけ、これまで多くの症例を積み重ねています。
私は1968年に医師になり、2009年に退官するまで、一貫して白血病の診療と研究に取り組んできました。その間、造血幹細胞の基礎研究の進歩があり、化学療法の発展、分子標的薬の開発、造血細胞移植の普及など、血液学の進歩と共に歩むことができた幸運な時代を経験しました。
こうした血液学の進歩を背景に、学会も発展させたいという思いを抱く若手の教授の有志で、1959年に日本血液学会から分かれた日本臨床血液学会を再び一つにする活動にも関わりました。40年以上別開催だった両学会をいきなり統合するのは難しいと考え、10年かけて統合するプランを練りました。そして2002年から2007年の6回にわたり、同時期開催とし、2008年から新生・日本血液学会として一本化にこぎ着けました。
私は、教育担当理事として、医学生・研修医を対象とした100人規模のセミナーを企画、これは定員がすぐに埋まる人気のセミナーとなりました。また、血液専門医を目指す医師を学問的にサポートするセミナーも開催するようにしました。血液内科医を増やすことで、やがては血液学の発展に寄与できると考えたからです。実際、血液学会の会員数がその後うなぎ登りに増えていく、きっかけとなりました。
核兵器による放射線被曝の影響は生涯続く
医師として国境を越え、核廃絶を訴え続ける
血液内科医としての活動のほかに、1983年からは核兵器廃絶の国際的活動を行なっています。原爆白血病疫学の専門家として、そして原爆被爆者として、研究だけではなく、二度と核兵器を使わせないための行動を取る必要があると考え続けてきたからです。
第二次大戦後から続いた米ソの冷戦の中、80年代初めには両国が保有する核弾頭の数は7万発を超えていました。これは地球上の全人類を何回も殺戮できる数でした。現在は1万3千発まで減っています。世界の医師たちの間には、人類滅亡の可能性を秘めた核兵器に依存する国際安全保障のあり方は、人の健康に責任を持つべき医師として看過できないという認識が芽生えていました。そして1980年、米国・ワシントンで米ソの指導的な立場の医師たちと、被爆国日本から招かれた広島と長崎の医師たちによって、核戦争防止国際医師会議(International Physicians for the Prevention of Nuclear War;IPPNW)が設立されました。何か行動を起こしたいと考えていた私は、83年にIPPNWのメンバーとなり、新たな目標を見出しました。
その後、会員数が60万人に達したIPPNWは当時の冷戦の当事者であったソ連のゴルバチョフと米国のレーガンに対して、直接、核兵器のもたらす人道的結末について医師の立場から科学的根拠を提示して説明、それは核実験の全面禁止への道を切り開くことになりました。国際政治を大きく動かしたことで、85年にIPPNWはノーベル平和賞を受賞しました。
しかし、21世紀に入るとIPPNW単独の核廃絶運動では世界の核廃絶を主導するには力不足であると認識され、世界中のNGOに呼びかけて核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign for Abolition of Nuclear Weapons;ICAN)の設立を推し進めました。ICANには世界の200を超えるNGO団体が参加、若者を中心とする世界最大の市民社会の代表として、核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議などでリーダーシップを発揮しています。そして、その活動はついに2017年には核兵器禁止条約が国連で採択され、その功績が認められ、2017年12月にノーベル平和賞を受賞しました。
これに先立ち、2013年2月には、ノルウェー・オスロで、世界で初めての核兵器の非人道性に関する国際会議(International Conference on Humanitarian Impact of Nuclear Weapons)が開催されました。私は、その第1回オスロ会議で、原爆放射線の生涯持続性についての講演を行いました。
原爆被爆者では、1950~1970年代の初期の白血病のピークが観察されましたが、1980年代以降も固形がんが増加し、60歳代半ばになると驚くべきことに高齢化しつつある被爆者集団において、MDSが増加傾向を示し始め、2000年代以降もこの傾向は持続しています。しかも70年以上も前の原爆放射線被曝によって、明らかに被曝線量依存性にMDSの発生率は対照の線量ゼロ群の4倍程度まで上昇していることを見い出しました。
これは原爆の放射線により幹細胞がDNAレベルで傷害されたことが原因である仮説を提唱しました。そして現在もなお、白血病、MDS、固形がんの過剰な発症が続いており、原爆後障害が「生涯持続性」であることを強調しました。この講演をきっかけに、医療関係者、科学者だけでなく、世界の外交官も原爆による「生涯持続性」を広く認識するようになりました。
また、2012年4月には長崎大学は核兵器廃絶研究センター(RECNA)を設立しました。世界にも例を見ない核兵器廃絶に焦点を当てた研究・教育の拠点で、これまで国内外でさまざまなシンポジウムを開催、特に北東アジアの核兵器廃絶に力を入れています。これは北朝鮮と米国による朝鮮半島の非核化と平和構築を支援するための長崎大学の提案です。
血液学は大きく進歩し、研究領域が広がりましたが、研究は常に掘り下げていくことが重要です。どんなテーマの研究をすべきか、若い血液内科医は迷うことも多いと思います。研究のテーマは与えられるものではなく、目の前の患者さんの中にあります。しっかり観察し、自分で研究テーマを見つけて切り開いていくことが大切です。最初の扉をなんとか開くことができれば、そこには次の部屋があります。その部屋にはもっとたくさんの扉があるでしょう。研究が進み新知見がもたらされると、次々に未知の領域が出てきます。それをさらに解明すべく研究を続ける。これが研究の面白さです。私の原爆研究はまさにこの連続でした。そして、これが血液内科医の使命だと思います。