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この人に聞くThe Experts

血液内科医と核なき世界を訴える社会活動の二足のわらじ
被爆者白血病の診療と自らの原爆体験が原動力に(前編)

朝長万左男(長崎大学 名誉教授、恵みの丘長崎原爆ホーム診療所 所長)

2019.07.11

「この人に聞く」のシリーズ第8回では、長崎大学名誉教授の朝長万左男氏にお話をうかがいました。2歳のときに長崎原爆に被爆し、医師となってからは、被爆者の白血病などの疾患を追う血液内科医として診療・研究を続けてきました。一方で、核兵器廃絶を訴える世界的な医師の団体である核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の日本代表として活動し、核兵器による放射線被曝の後遺症が生涯継続性であることを広く世界に発信しました。「目の前の患者さんにこそ研究すべきテーマがある。その扉を自ら開くと、次に現れた部屋にはいくつもの扉があり、それをまた開く。この繰り返しが大切」と話します。

朝長万左男(長崎大学 名誉教授、恵みの丘長崎原爆ホーム診療所 所長)

朝長万左男氏

1968年長崎大学医学部卒業。同年長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設(現・長崎大学原爆後障害医療研究所)血液内科(原研内科)に入局。以来、40年以上にわたり血液内科医として被爆者医療および白血病の研究に取り組む。原研内科講師、助教授を経て90年同科教授に。2009年日本赤十字社長崎原爆病院院長。14年より純心聖母会恵みの丘長崎原爆ホーム診療所所長。核兵器の非人道性に関する国際会議日本政府代表、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)国際副会長なども務める。現在、外務省の「実質的核軍縮を推進する賢人会議」メンバーとして活動中。

 1968年に長崎大学医学部を卒業して以来、40年以上にわたり、長崎大学原研内科の医師として、白血病や骨髄異形成症候群(MDS)などの造血器腫瘍を中心に診療と研究を続けてきました。この間に血液学は飛躍的な進歩を遂げ、私は幸運にもその奔流の中に身をおき続けることができました。大学を退官したあとは、日本赤十字社長崎原爆病院へ、そして現在は恵みの丘長崎原爆ホーム診療所で、引き続き被爆者の診療を続けています。

 一方で、原爆被爆地の医師として、また原爆の被爆者として、核兵器廃絶のための国際的な活動も続けています。その活動の中で、私は核兵器による放射線被曝は生涯持続性の影響を及ぼすことを語り続け、今では国際的に被曝の人体影響の生涯持続性が広く認知されるようになりました。そして私が日本代表を務める核戦争防止国際医師会議(IPPNW)は1985年にノーベル平和賞を受賞、そしてこのIPPNWを母体に発足した若い世代による核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)は、2017年に核兵器禁止条約の採択を成し遂げ、ノーベル平和賞を受賞しました。

 医師としての研究成果と社会活動を合流させ、結実させることができたと思っています。

爆心から2.5kmで被爆するも生き延びる
曾祖父・祖父・父とも医師の家系を継ぐ

 1945年8月11日、私が2歳2カ月のときに、二発目の原爆が長崎に投下されました。多くの市民が、原爆の熱線によって火傷し、爆風で壊れた建物の下敷きになったりしました。強烈な放射線を浴び、3カ月以内に亡くなった方は7万5,000人に上りました。私は爆心から2.5kmの自宅で被爆し、家は半倒壊し15分後に猛火に襲われ、一帯は焼け野原になりました。その直前に倒壊した家屋の中から母が私を救い出してくれ、近くの神社に避難しました。私は幸運にもけがをせず、熱線なども浴びずにすみました。放射線も低い線量の被曝ですみました。

 原爆のときは、父は軍医として陸軍航空隊に従軍しており、「原爆投下で長崎が全滅した」という知らせを台湾に駐屯していたときに聞き、一家は全員死んだものと覚悟したそうです。終戦後、台湾政府により1年半の台湾での診療を命ぜられ、1947年に長崎に生還し、私たちと再会しました。長崎大の同期の医師の多くが亡くなっていたこともあり、父はすぐに母校の長崎医科大学の内科助教授となり、その頃被爆者に増え始めていた白血病患者さんの診療を開始しました。父は白血病の専門家の道を進み始め、これが長崎大学における血液内科の源流になっていきました。

 1960年に、父は広島大学に新設された原爆放射能医学研究所の内科に赴任し、高校生だった私も広島の高校に転校しました。白血病の診療と研究に取り組む父の背中を見て育ったこともあり、また曽祖父、祖父も医師で、医師の家系を継ぐという使命感もあり、私は迷わず医師になる道を選び、1962年に長崎大学医学部に入学しました。この頃、ビキニ水爆実験による第五福竜丸乗組員の被曝があり、広島では核廃絶運動が燃え盛っており、高校生であった私は強烈な印象を受けたものです。

同世代の白血病多発で自身も発症の不安
造血幹細胞の発見、臨床応用を目の当たりに

 同世代の被爆者から白血病が多発していることを新聞報道で知り、身近にもそうした若者がいたことから、被爆した自分も白血病を発症するのではないかという漠然とした恐怖感を持っていました。当時、白血病は不治の病で必ず死ぬ病気でした。なぜ原爆によって白血病が発症するのか、その理由を知ろうと、図書館などで白血病のこと、原爆や放射線のことを独学しました。

 世界では、米ソの冷戦が激化し、核兵器開発競争が進んでいました。核戦争の勃発の恐れに世界の人びとが不安に直面していました。この頃には、核爆発による放射線被曝と骨髄の障害に関する研究が進んでいて、強い放射線によって骨髄が破壊され、肺炎などの感染症になり死亡することなどが、広島と長崎の事例から判っていました。1960年代初頭には、世界で初めて造血幹細胞がTillとMcCullochにより発見され、その後、骨髄の中の造血幹細胞が放射線によってダメージを受けることも明らかになりました。

 一方、1957年にはシアトルのDonnall Thomasが、抗がん剤と全身放射線照射の前処置による骨髄移植に成功しました。1960年代には各国で骨髄移植が盛んに行なわれるようになりましたが、残念ながら、初期の移植は失敗が多くありました。造血幹細胞の発見、骨髄移植の始まりなど、血液学の大きな転換期に、私の医学部から血液内科医の修練期がすっぽりはまっていました。

 大学3年の1965年に長崎大学医学部にも原爆後障害医療研究施設(現・原爆後障害医療研究所)が設置され、その内科(原研内科)の初代教授に父が広島大学から帰ってきて就任しました。68年に医学部を卒業した私は、白血病の発症が続いている状況、放射線被曝と造血幹細胞の傷害などの研究の進展を考え、原研内科に入局しました。当時は100%死亡する白血病を何とか治すための研究をしたいと思ったからです。

 その後、父は悪性リンパ腫で他界しましたが、後任の市丸道人先生のもと、原爆傷害調査委員会(ABCC)の石丸寅之助先生の指導も受けて、白血病の疫学研究を専門とするようになりました。1970年代になると、白血病の発症は減少していきました。とはいえ、白血病の予後が悪いことには変わりはありませんでした。

 1940年代終わりにステロイド剤が臨床応用され始め、世界で初めて小児の白血病で完全寛解が得られたという報告もありました。そして1950年代に入ると化学療法剤の数も増えて、成人の白血病でも広く臨床応用されるようになり、60年代には化学療法によって長期生存する白血病患者がいるとの報告が国内外で散見されるようになりました。わが国で先頭を切って化学療法に取り組んでいたのは、当時名古屋大学におられた大野竜三先生のグループでした。

 その後、わが国でも白血病に対する化学療法の症例が増え、寛解率も向上していきました。しかし、世界では70年代後半には成人の急性骨髄性白血病(AML)でもかなり高率に完全寛解(CR)が得られるようになっており、わが国の治療水準は世界に大きく水を開けられていました。それを見せつけられたのが、1987年2月にローマで開かれた第4回国際白血病治療シンポジウムでした。

長崎市で開催された第20回臨床血液学会の円卓討議風景(1978年)
長崎市で開催された第20回臨床血液学会の円卓討議風景(1978年)第20回臨床血液学会(会長:市丸道人教授、長崎市で開催)で、日本で初めて骨髄異形成症候群(当時はHemopoietic Dysplasia;HPDと呼んでいました)のシンポジウムが円卓討議(Round Table Discussion)としてプログラムに組み込まれました。700名以上の会員の参加があり、これ以後、わが国ではMDSの診断方法が普及し、臨床研究が盛んに行われるようになりました。長崎大グループはこの時、原爆被爆者におけるHPD例を報告しましたが、これが本文に記述したように、原爆被爆者における生涯持続性の証拠としての、2000年以後に顕著となったMDSリスク上昇を疫学的に証明することになる研究の端緒となったのでした。

〈後編では、JALSG(Japan Adult Leukemia Study Group)の立ち上げや、日本血液学会と日本臨床血液学会の統合についてお話をうかがいました。〉