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この人に聞くThe Experts

悪性リンパ腫を軸に39年の診療と研究
「チャンスで最大限の努力」を積み重ねる(前編)

飛内賢正(介護老人保健施設 リハビリケア船橋 施設長、国立がん研究センター中央病院 客員研究員)

「この人に聞く」のシリーズ第6回では、血液内科医として39年間、主に悪性リンパ腫の診療と研究に力を注ぎ続けた、元国立がん研究センター中央病院血液腫瘍科科長の飛内賢正氏にご登場いただきました。病態も治療もよく分からない時代から悪性リンパ腫に取り組み、国立がんセンター病院のレジデントとなり、やがて海外へと活動の場を広げていった飛内氏は「チャンスが来たら逃げずに最大限の努力をした。そうすれば次のチャンスが巡ってくる。これを積み重ねてきた」と話します。

飛内賢正(介護老人保健施設 リハビリケア船橋 施設長、国立がん研究センター中央病院 客員研究員)

飛内賢正氏

1976年東北大学医学部卒業。同年4月より福島県いわき市立総合磐城共立病院内科で4年間の研修・勤務。80年国立がんセンター病院内科レジデント。83年磐城共立病院内科医長。86年国立がんセンター中央病院臨床検査部へ。造血器科医長、第一領域外来部部長を経て2010年国立がん研究センター中央病院血液腫瘍科・造血幹細胞移植科科長/副院長。組織改編に伴い12年より血液腫瘍科科長。17年4月より現職。国内外の血液・腫瘍関連の多くの学会に貢献するとともに、NEJM、Lancet、Lancet Oncology、JCO、Blood、Haematologicaなど数多くの医学雑誌の論文審査にも長年携わっている。

 1986年に国立がんセンター病院(当時)臨床検査部のスタッフとして勤務して以来、悪性リンパ腫の診療・研究にほぼ一筋の生活を送り、2017年3月に退職、現在は介護老人保健施設の施設長を務めています。国立がん研究センター中央病院では、日々の診療や研究に従事するとともに、日本血液学会、日本癌学会、日本臨床腫瘍学会、米国血液学会(ASH)など多くの学会で、プログラム企画や投稿論文審査などを担当し、ガイドライン策定などにも関わってきました。T細胞リンパ腫フォーラムやルガノ国際悪性リンパ腫会議など国際会議の企画委員、さらには NEJMやLancet、Journal of Clinical Oncologyなどの医学雑誌のレビューアーなどを務めてきました。

 東北大学を卒業後、すぐに福島県の磐城共立病院(現・いわき市医療センター)の研修医となり、その後、どこの医局にも属さない“一匹狼”で、長期の海外留学の経験もない私ですが、病院の外でもいろいろな仕事を任されるようになりました。巡ってきたチャンスから逃げず、私なりに最大限の努力をする、という積み重ねがあってこそだろうと思っています。

磐城共立病院の初期研修で血液腫瘍患者に出会う
卒後10年目に国がんスタッフ医師へ、定年まで勤める

 私は青森市の出身で、家族に医師や医療関係者もおらず、県立青森高校に入学するまでは、法学部などの文科系の大学に進学しようと思っていました。高校2年生のときに理科系か文科系かのコース分けがあり、迷った末、後から文科系に変われる可能性のある理科系に進みました。ただ、数学や物理学を専門にしたいと思っていたわけではないこともあり、医学部入学を目指すことになりました。

 東京大学の受験も考えたのですが、大学紛争で入試が中止になった翌年で、きちんとした教育を受けられないかもしれないと考え、東北大学医学部に進学しました。そして在学中に、広く医学を学べる内科学の道に進もうと決めました。内分泌学に興味を持ち、当時の東北大学第二内科教授だった吉永馨先生に、このまま大学に残って内分泌学の道に進むべきかどうかを相談しました。吉永先生からは「まず、市中病院で広く内科を勉強した方が良い。それから専門科を選べばよい」とのアドバイスがあり、2年間の予定で磐城共立病院で内科の初期研修を受けることになりました。

 初めて臨床現場に立った私の興味は、内分泌よりもほかの領域に向いていきました。内分泌以外の消化器内科、呼吸器内科、血液内科など他の内科領域では、がんの患者さんが多く、しかも当時は有効な治療に乏しく、多くの人が助からない厳しい状況にありました。中でも血液内科ではほとんどの患者さんが亡くなっており、アンメット・ニーズが極めて大きい領域でした。当時は造血器腫瘍については病態が十分に解明されておらず、特に悪性リンパ腫は患者数が多いにもかかわらず、病態も治療もよく分かっていませんでした。私の興味は血液内科に絞られていきました。

 そんなときに、LukesとTindleが1975年にNEJMに発表した「免疫芽球性リンパ節症(IBL/AILD)」と思われる患者さんに遭遇したのです。さらに、急性リンパ芽球性白血病の患者さんで、T細胞に由来していると思われる症例を経験しました。この2人の患者さんと出会って、「この分野では今後大きな進歩が期待できる」と感じた私は、悪性リンパ腫の道に進もうと決意しました。

 磐城共立病院での2年間の内科初期研修を終えたあとも、私はさらに血液内科スタッフ医師として同病院に2年間勤務しました。その間に開催された血液学会で、悪性リンパ腫の専門家である下山正徳先生の講演を聞く機会があり、強い興味を覚えた私は、磐城共立病院の「内地留学制度」を利用して国立がんセンター病院内科のレジデントになりました。ここで造血器腫瘍の診療・研究の第一線に立つ人たちを身近に見ながら、一から勉強し直し、診療だけでなく基礎研究にも携わり、研究成果を英語の論文で発表しはじめました。

米国への短期研修、留学が転機に
周到な準備で講演、人脈が海外に拡がる

 国立がんセンターへの3年間の内地留学を終えて、1983年6月に磐城共立病院に戻った私は、それから2年半の間に、磐城共立病院における悪性リンパ腫に対する診療の体系化を進めました。そして86年に下山先生のご推挙により、国立がんセンター中央病院のスタッフ医師として勤務することになりました。以来31年間、私は国立がんセンターに勤務し、主に悪性リンパ腫の診療と研究を続けることになるのです。当初は血液内科には5人の先輩医師がいましたが、少しずつ退職され、気が付けば94年には私が血液内科のチーフになっていました。

 今でこそ、海外でも少し名を知られる専門医となりましたが、私が国際デビューしたのは、90年にルガノで開催された国際悪性リンパ腫会議のオーラルセッションです。口演発表に備えて、以前米国臨床腫瘍学会(ASCO)の会場で購入した英語の講演録音テープを何度も聞いて、一つ一つの医学用語のアクセントを修正するなど英語をブラッシュアップしました。

 その後、米国に3週間の研修と3カ月の短期留学をする機会を得ました。この2回の米国での経験が、その後の私の活動の場を広げる転機となりました。

 92年に高松宮妃癌研究基金の助成により、米国 フレッド・ハッチンソンがん研究センターとダナファーバーがん研究所に計3週間の研修に行くことになりました。事前に各施設のkey doctorと手紙でやり取りし、どの研究者とどんな論議をしたいかを具体的にリクエストしたところ、各施設では私専用のプログラムを作ってくれました。ダナファーバーがん研究所で1時間の講演時間をもらい、それまでの自らの研究成果を発表しました。研究内容を理解してもらうために、スライドを準備し、先方から欲しい情報についても整理しておきました。その甲斐あって、講演後は有意義な論議ができ、今も交流のある多くの研究者の知己を得ました。

国立がん研究センター中央病院 血液腫瘍科の毎朝のカンファレンス(上)と週1回の病理カンファレンス
国立がん研究センター中央病院 血液腫瘍科の毎朝のカンファレンス(上)と週1回のカンファレンス

〈後編では、3カ月という短い留学期間で、海外の研究者との人間関係を築き、海外に活動の場を広げ、その後、数々の要職をお務めになられた飛内先生が、一貫して重視してきた医師・研究者としてのマインドおよび若い先生方へのメッセージをお聞きしました。〉