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この人に聞くThe Experts

ヒトがん免疫が成立することをいち早く確信
ATLに対する日本発の分子標的薬を開発(前編)

上田龍三(名古屋大学大学院 医学系研究科 特任教授、名古屋市立大学 名誉教授、愛知医科大学 名誉教授)

「この人に聞く」のシリーズ第20回は、名古屋大学大学院医学系研究科特任教授の上田龍三氏にお話をうかがいました。ヒトはなぜ白血病になるのか、がんになるのかという問題を追究し続け、米国留学中にがん免疫が成立することを確信し、帰国後は愛知県がんセンターでモノクローナル抗体の作製と解析を始めました。その後、成人T細胞白血病(ATL)に対する分子標的薬モガムリズマブの開発、上市にこぎ着けました。「臨床で抱いた問題を追い続け、解決に向けて困難でも克服しようとする努力が大切だ」と話します。

上田龍三(名古屋大学 特任教授)

上田龍三氏

1944年朝鮮・京城府生まれ。1969年3月名古屋大学医学部卒業。同年4月名古屋大学合同内科入局、72年6月同大第一内科入局。76年9月米国・ニューヨークのスローン・ケタリング癌研究所客員研究員。80年9月愛知県がんセンター研究所化学療法部主任研究員、同室長、同部長を経て95年4月より名古屋市立大学医学部第二内科教授に。2003年4月名古屋市立大学病院病院長(兼務)。08年4月〜12年3月まで名古屋市病院局局長を務める。12年4月愛知医科大学腫瘍免疫寄付講座教授、12年4月名古屋市立大学特任教授、18年11月より現職。第67回日本癌学会学術総会会長。ATLに関する文部科学省や厚生労働省の多くの研究事業の研究代表者を務めた。

 初期研修時代に3人の白血病患者さんの主治医を務めました。当時は白血病の診断は死の宣告と同じで、医師として悔しい思いをたくさんしました。そして、「なぜ白血病になるのか」「なぜがんになるのか」。それを知りたくて、今日まで研究と臨床を積み重ねてきました。

 米国留学での研究を通して、がん細胞にはがん特有の抗原があり、がん患者の免疫細胞は自分のがん細胞を認識できる、つまりがん免疫が成立することを確信しました。それが抗体医療に関わるきっかけとなり、その後の成人T細胞白血病/リンパ腫(ATL)に対する抗CCR4抗体の作製につながりました。そして多くの共同研究者や製薬会社の協力により、ATL患者さんに「モガムリズマブ」を届けることができました。これは、わが国で初めての日本発の抗がん抗体医薬の開発です。この功績が認められ、2003年に高松宮妃癌研究基金学術賞を受賞し、2017年には春の紫綬褒章も受章しました。

 私のがん研究は、いまも続いています。大学の定年を迎えたのは本庶佑先生が見出した免疫チェックポイント分子PD-1の阻害薬である抗PD-1抗体の驚くべき治療効果が報告されメラノーマに治療薬として承認された時期でした。留学時代に抱いたがん免疫療法の夢が遂に現実となりはじめ、興奮の毎日でした。この画期的な治療の展開をもう少し自分の眼と手で実感したいと思い、2012年に愛知医科大学腫瘍免疫寄付講座を開設しました。そして現在も、引き続き名古屋大学で研究を楽しんでいます。

 がんから学び、がんと共に歩んだ50年を振り返ります。

1978年 スローン・ケタリング癌研究センターの研究室にて。大学の敬愛する先輩であり、私の研究者としてのMentorであり、ヒトがん免疫療法の盟友である珠玖洋先生(右)と。
1978年 スローン・ケタリング癌研究センターの研究室にて。大学の敬愛する先輩であり、私の研究者としてのMentorであり、ヒトがん免疫療法の盟友である珠玖洋先生(右)と。

初期研修で白血病患者の主治医に
名大白血病グループに加わり研究の道へ

 私は、1944年に朝鮮・京城府(現・ソウル市)で生まれました。1945年に愛媛県松山市に移り、開業医である父の三男として育ち、1963年に愛光高校を5期生で卒業、名古屋大学医学部に入学しました。医学部卒業時は、大学紛争の余波で講座制による入局に反対して、最初の1年間は卒業生による自主研修を行ない名古屋市内の大同病院などでローテート研修を受けました。その後2年間は、岐阜県多治見市の県立多治見病院内科で初期研修を受けました。

 指導医のもと、重症患者さんの主治医を務めることもあり、特に大変だったのは、当時治療法が確立されていない白血病患者さんを担当したときでした。多治見病院には血液の専門医がいなかったため、患者さんの血液と骨髄穿刺の塗抹標本を持って、県境の内津峠を越えて、名古屋大の白血病研究室に診断や治療方針の相談に何度も往復しました。このときに懇切丁寧に指導してくださったのが、当時講師だった山田一正先生でした。そして、白血病患者さんの主治医になった経験が、私の医師としての原点になりました。

 1972年に初期研修を終えた私は、大学で研究するなら白血病だと考え、山田先生の第一内科第三研究室の門を叩きました。白血病グループには、その研究に取り組む優秀な先輩が大勢いて、私は多くのことを学び、刺激を受けました。

 第一内科では、1975年に白血病に対する1例目の造血幹細胞移植を行ないました。個室のベッドに簡易ビニールテントを張った応急の無菌室を作りました。何もかもが初めてで、HLA型も移植片対宿主病(GVHD)もよく分からない時代であり、移植の治療成績は芳しいものではありませんでした。

 診療では白血病の化学療法や、移植の壁にぶつかり、一方で私は、なぜ白血病になるのか、それを知りたいと強く思うようになっていました。ちょうどそのころ、米国・ニューヨークのスローン・ケタリング癌研究センターへの留学の話があり、私は心機一転、本格的な研究の道に進むことにしました。この留学は、教室の先輩である高橋利忠先生と珠玖洋先生の尽力によるものであり、今でも心より感謝しています。そして1976年9月に、私は米国に渡りました。

1998年 高山にてSKIの集い。左から、故 珠玖洋先生(三重大学名誉教授)、故 中山睿一先生(岡山大学名誉教授)、故 高橋利忠先生(愛知県がんセンター名誉総長)、私。
1998年 高山にてSKIの集い。左から、故 珠玖洋先生(三重大学名誉教授)、故 中山睿一先生(岡山大学名誉教授)、故 高橋利忠先生(愛知県がんセンター名誉総長)、私。

米国での研究で固形がんの腫瘍抗原を同定
「がん免疫が成立すること」を確信し帰国

 私が所属したのは、研究所副所長のLloyd Old先生が率いる研究室でした。Old先生は、マウスの化学発がんやウイルス発がんの研究に取り組み、thymus leukemia antigen(TL抗原)やTNFの発見者として知られ、腫瘍免疫の研究を牽引されていました。また、Old先生と一体となって臨床部門を統括していたHerbert Oettgen先生にも師事しました。私の留学時代のテーマは、「がんはどうしてできるのか」、そして「ヒトの免疫細胞は自分のがん細胞を認識できるのか、すなわちがん免疫は成立するのか」の2つでした。

1978年 スローン・ケタリング癌研究センター留学中の培養室にて
1978年 スローン・ケタリング癌研究センター留学中の培養室にて

 がんの本態が不明であった時代の腫瘍免疫学では、ヒト腫瘍に腫瘍特異抗原の存在を示すことが基本的かつ重要な課題でした。Old先生のグループでは、自家腫瘍由来の培養細胞に対する患者血清の血清学的反応から、腫瘍に特異的な抗原の同定を試みていました。そして、高橋先生と珠玖先生は、メラノーマの腫瘍特異抗原を見事に証明しました。一方、私は腫瘍抗原の存在は当時から免疫原性が強いといわれていたメラノーマに特異的なことなのか、あるいは一般の固形がんでも腫瘍抗原が証明できるのかについて研究を進めました。そこで、上皮がんで唯一、正常上皮が培養でき、対照細胞として利用できる腎臓がんを対象に解析を行ないました。その結果、自家腫瘍のみに検出される腫瘍特異固有抗原(クラスⅠ抗原)、腎臓がんに共通の抗原(クラスⅡ抗原)、腎臓に共通の抗原系など現在で言うネオアンチゲンを同定することができました。

 また、1975年にモノクローナル抗体の作製手法が発表され、理論的にあらゆる抗原に対する抗体の作製が可能になったことから、世界中で抗体作製が進められていました。私たちも、自家血清タイピングで同定した抗原に対するモノクローナル抗体の作製をいち早く積極的に進め、多くの腎臓がん関連抗原の解析を可能にしました。一連の研究成果から、私は「ヒトがん免疫は成立する」ことを確信して帰国しました。

 4年間の留学生活で私は多くのものを得ました。まず素晴らしい指導者や世界の多くの研究者に巡り会え、一緒に研究に取り組み、考え方の多様性を学びながら、友人も多くできました。集中して研究に打ち込める時間を十分に持つこともできました。また、日本を客観的に見直し、日本の良さを自分の言葉で自信を持って言えるようにもなりました。日本人の研究仲間にも恵まれ、多くのメンバーが帰国後も全国各地で活躍しており、交流は今も続いています。

1980年 ドイツ・マインツで留学仲間と再会。左がA. Knuth君、右がM. Pfreundschuh君。
1980年 ドイツ・マインツで留学仲間と再会。左がA. Knuth君、右がM. Pfreundschuh君。

愛知県がんセンターでは肺がんも研究
1995年に名古屋市立大学の教授に

1983年 京都にて。恩師 L.J.Old先生が第42回日本癌学会(長与健夫会長)招聘講演で初来日された。
1983年 京都にて。恩師 L.J.Old先生が第42回日本癌学会(長与健夫会長)招聘講演で初来日された。

 1980年に帰国し、9月から愛知県がんセンター研究所で医局の大先輩である太田和雄先生のもと仕事をすることになりました。太田先生は研究所の化学療法部と病院の腫瘍内科の部長を兼任されており、スローン・ケタリング時代のように、臨床と研究が密接に一体化した仕事ができました。

 研究所では、一足先に帰国されていた高橋先生が、私の帰国に備えて化学療法部のラボを整備し、優秀な研修生も確保していました。さらに抗体作製の細胞融合実験ができるよう、帰国した日には各種がん細胞により免疫された数十匹のマウスも待っていて驚きました。高橋先生には本当に感謝しております。

 私はまず、腎臓がんでの研究経験を肺がんに応用する研究を始めました。すると中でも肺小細胞がんは、造血器腫瘍と同じく浮遊細胞で培養可能で、様々な生物学的特徴や染色体異常が観察でき、造血器腫瘍での方法論が導入しやすい固形がんであることが分かりました。そこで研究室一体となって血液腫瘍と肺がんを対象として、腫瘍発生機序の研究と、血清学的および分子生物学的解析を駆使した診断、治療の開発研究に取り組みました。

 この間、多くの共同研究者にも恵まれました。私の帰国当時は研修生だった瀬戸加大先生は、その後の留学先で濾胞性リンパ腫(FL)における転座関連遺伝子であるBCL-2遺伝子の関与に関して、また髙橋隆先生も留学先で肺がんにおける最初のがん抑制遺伝子のp53遺伝子の関与に関して、いずれも世界に先駆ける成果を上げています。2人とも帰国後は再び化学療法部で研究を続け、ラボは一層活性化しました。

〈後編では、名古屋市立大学教授時代のご研究や教育、また成人T細胞白血病(ATL)に対する分子標的薬モガムリズマブの開発について語っていただきました。〉