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この人に聞くThe Experts

分子生物学、移植、そして地域医療へ
常に好奇心を持ち新しい何かを始める(前編)

谷本光音(公立学校共済組合 中国中央病院 院長)

「この人に聞く」のシリーズ第15回は、中国中央病院院長の谷本光音氏にお話をうかがいました。名古屋大学を卒業後、大学院や愛知県がんセンター、米国留学で多くの知己を得た谷本氏は、その後分子生物学を応用した研究を進める一方で、造血細胞移植の普及に努めました。大学では学生や研修医の教育に力を注ぎ、退官後は地域医療に取り組んでいます。「常に好奇心を持って新しい何かを探す努力が自分を磨く」と話します。

谷本光音(公立学校共済組合 中国中央病院 院長)

谷本光音氏

1977年3月名古屋大学医学部卒業。同年4月に名古屋大学大学院に入学、81年に修了後、米国・ニューヨークのスローン・ケタリングがん研究所に留学。85年名古屋大学第一内科医員、91年同科助手、98年名古屋大学医学部附属病院講師(第一内科)。2001年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科教授(第二内科)、04年岡山大学病院副院長、11年総合研究科研究科長。17年4月国立病院機構岩国医療センター院長。20年4月より現職。第27回日本造血細胞移植学会会長、第7回JSH国際シンポジウム会長、第15回日本臨床腫瘍学会学術集会会長などを務める。

 1977年に名古屋大学を卒業した私は、すぐに大学院に入学し、修了後は米国・スローン・ケタリングがん研究所に留学、帰国後は名古屋大学で研究、臨床、教育の日々を送り、2001年に岡山大学に赴任しました。退官後に初めて市中病院に勤務することになり、長年やりたかった地域医療に取り組んでいます。

 私の略歴は、名古屋大学卒業、同大大学院修了、米国・スローン・ケタリングがん研究所留学、名古屋大学第一内科、岡山大学第二内科となりますが、その間に巡り会った多くの師、先輩、同僚や後輩と一緒に、分子生物学の手法で研究を進め、臨床では造血細胞移植を広げてきました。大学では教育に力を注ぎ、優秀な研究者や医師を育ててきたと自負しています。大学を退官した今は、過疎地や離島の地域医療を実践しています。

愛知県がんセンターでの研修生仲間だった坂口志文先生(大阪大学)を囲んで。左から大江裕一郎先生(国立がん研究センター中央病院)、私、坂口先生、光冨徹哉先生(近畿大学)。
愛知県がんセンターでの研修生仲間だった坂口志文先生(大阪大学)を囲んで。
左から大江裕一郎先生(国立がん研究センター中央病院)、私、坂口先生、光冨徹哉先生(近畿大学)。

100年以上続く開業医の家に生まれる
研究と臨床が同時にできる血液の道へ

 私は、愛知県の西部、愛西市のさらに一番西にある開業医の家に生まれました。祖父の代から100年以上続いており、現在は兄が内科医、妹が小児科医として診療を続けています。子どもの頃から父の仕事を通して地域医療を見ており、医師になるべくしてなったと思っています。

 名古屋大学に入学してからは、医学研究に興味を持つようになり、研究職の道を考えたこともありました。神経学にも興味を覚え、脳外科か神経内科に進もうかとも思っていたところ、たまたま社会医学実習で最先端の脳外科手術を勉強する機会を得ました。それは「定位脳手術」により、企図振戦(intention tremor)の治療を行なうというものでした。約3か月間患者さんの術後の経過をフォローしましたが、残念ながら患者さんの振戦は手術をしても治りませんでした。

 その結果に落胆した私は、卒業後はdefective operationの外科系ではなく内科に進もうと決意し、血液内科と神経内科のある第一内科に入局しました。その当時の第一内科には7つの診療科があり、その中に血液内科もありました。私は卒業後すぐに大学院に入学して研究を始めようと考えていたのですが、一つの内科講座に入学できるのは年2人と決まっていました。神経内科にはその年すでに一人決定という噂を聞いたので、私は血液内科を選びました。実は血液学にも興味はあり、大学3年のときから英語の教科書はよく読んでいました。名古屋大の血液内科ではわが国の移植1例目、2例目を実施しており、それをすぐ近くで見ていたからです。血液内科は研究をやりながら臨床もできる診療科で、それは私が目指す道でもありました。

 名古屋大学では卒業後はほぼ全員が関連病院に勤務して、現在の臨床研修に近いローテート方式で2年以上研修を受けることになっていました。私は誰がどの病院に行くかを自主的に調整する卒後研修委員会の委員長を務めており、「みんなが外に出るなら、俺は大学に残ろう」と、そのまま大学院に入学しました。大学院には同期は一人もおらず、4年間、ずっと一番年下の大学院生でした。

1981年第43回日本血液学会(名古屋 太田和雄先生会長)の記念撮影(名古屋キャッスルホテルにて) 下段中央にBayard D Clarkson先生、両側には山田一正先生、太田和雄先生、日比野進先生、大北巖先生、中段左に高橋利忠先生、奥様、珠玖洋先生、上段左に私、一人おいて上田龍三先生、中央には浦部晶夫先生、小川一誠先生。
1981年第43回日本血液学会(名古屋 太田和雄先生会長)の記念撮影(名古屋キャッスルホテルにて)
下段中央にBayard D Clarkson先生、両側には山田一正先生、太田和雄先生、日比野進先生、大北巖先生、中段左に高橋利忠先生、奥様、珠玖洋先生、上段左に私、一人おいて上田龍三先生、中央には浦部晶夫先生、小川一誠先生。

大学院時代は愛知県がんセンターでも研究
米国では分子生物学の手法をいち早く応用

 当時の血液内科は山田一正先生が率いていました。大学院では4年間、大野竜三先生にご指導いただきました。一方で、山田先生から「(先生の弟子である)米国留学中の高橋利忠先生が愛知県がんセンターに戻ってくる。ついてはアシスタントとして愛知県がんセンターでも研究してほしい」と依頼がありました。私は名古屋大の大学院生であり、愛知県がんセンターの研修生にもなったわけです。振り返るとこの4年間は私にとって、多くの先生方との人脈を築くことができた大変有意義な期間になったと思います。

 名古屋大では、大野先生とヒトの検体(血液)からリンパ球を培養する研究に取り組み、その後、名古屋大に戻られた小寺良尚先生ともペアになって白血病細胞の研究を行ないました。一方、愛知県がんセンターでは、高橋先生と腫瘍細胞の表面抗原についての研究を進めました。がんセンターでの約3年の研究が終わろうとしたときに、上田龍三先生が帰国され、抗体作製の研究を続けました。大学院4年間で、大野先生、小寺先生、高橋先生、上田先生という4人の素晴らしい師に恵まれ、また高橋先生の元には1年先輩の坂口志文先生もおり、一緒に動物のケージ替えなどをやっていました。こうした巡り合いがその後の私の研究や臨床の土台になりました。

1985年名古屋大学第一内科同窓会にて。左から小寺良尚先生、高松純樹先生、私。
1985年名古屋大学第一内科同窓会にて。
左から小寺良尚先生、高松純樹先生、私。

 1981年に大学院を修了した私は、すぐに米国・ニューヨークのスローン・ケタリングがん研究所に留学しました。ボスはLloyd. J. Old先生で、がん免疫学の草分けの一人で、腫瘍特異抗原に対する免疫反応について研究していました。私は分子生物学の手法を用いて、最初は免疫療法のための腫瘍抗原の同定、それに対するT細胞のプライミングなどの研究を行ない、その後は細胞療法の研究や腫瘍特異的遺伝子クローニングへとシフトしました。80年代前半は、日本では分子生物学の手法を用いる研究をしている人はほとんどいない時代です。

 私は20代で留学したので5〜6年間は滞在できるだろうと考え、腰を据えて研究に取り組んでいました。ニューヨークに日本から研究者が訪問した際は、私が観光の案内をする役も担いました。その中には、Oldラボの先輩で、東北大学の橋本嘉幸先生もいました。Oldラボの同窓生は数多く、そのおかげで帰国後は同窓の研究者との交流も研究の糧になりました。ほぼ同時期にボルティモアに留学していた坂口志文先生とも再び交友を深めました。

 留学3年目の10月、佐賀大学から名古屋大学教授に着任されたばかりの齋藤英彦先生が私に会いにニューヨークに来られ、「名古屋大に戻って来られないか」と話されました。分子生物学の仕事が軌道に乗ってきた頃でもあり、考える時間が欲しいと答えました。Old先生と齋藤先生が相談した結果、1年後に帰ることが決まり、85年10月に帰国しました。

1982年 留学中にロックフェラー大学構内にて。右から、珠玖洋先生(三重大学)、ボスのLloyd. J. Old博士、故高橋信次先生(愛知県がんセンター総長)、私。
1982年 留学中にロックフェラー大学構内にて。
右から、珠玖洋先生(三重大学)、ボスのLloyd. J. Old博士、故高橋信次先生(愛知県がんセンター総長)、私。
ニューヨーク留学中のパーティー風景。右から、Albert Deleo博士(p53の発見者)、Lloyd. J. Old博士、私。
ニューヨーク留学中のパーティー風景。
右から、Albert Deleo博士(p53の発見者)、Lloyd. J. Old博士、私。

〈後編では、帰国後に造血細胞移植の研究に邁進されたことや、学生や研修医の教育にも力を注ぎ、自らも実践された岡山大学の教授時代について語っていただきました。〉