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この人に聞くThe Experts

「白血病を治す医師になりたい」
初志を貫き、移植医療の進展と普及に尽力(後編)

原田実根(唐津東松浦医師会医療センター 院長、九州大学 名誉教授)

原田実根(唐津東松浦医師会医療センター 院長、九州大学 名誉教授)

原田実根氏

1943年福岡市生まれ。68年九州大学医学部卒業後、同大附属病院研修医、70年同病院内科医員。72年金沢大学医学部第三内科医員、73年同大助手、75年同大輸血部講師。78年米国・カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部内科血液腫瘍学部門留学(2年間)。83年金沢大学医学部講師。87年九州大学医学部講師、91年同大助教授。94年岡山大学医学部第二内科教授。2001年九州大学大学院教授(医学研究院病態修復内科学分野)。07年国立病院機構大牟田病院院長、12年より現職。

 自己PBSCTも軌道に乗り、次は同種PBSCTの臨床応用だと考え研究を始めた頃、仁保先生から他大学の教授選への応募を勧められました。しかし、私は現状の研究環境にとても満足し、若くて優れた気の合う仕事仲間にも恵まれていたので、何度勧められても断り続けていました。ところが6回目に教授室に呼ばれたとき、「君が助教授のままでいると、優秀な若者が上のポジションに就けなくなる」と言われ、自身のわがままに気づきました。

 教授選に応募した岡山大学は、他大学出身者は教授になれないと言われていました。「きっと教授にはなれないだろう」と安心しきっていましたが、結果は1票差で選ばれてしまったのです。その知らせは、ASH期間中に訪れていた、留学中の赤司先生のご自宅(米国・サンフランシスコ)で受け取りました。赤司先生が「岡山大の学長からFAXが届いていますよ」と渡された紙に、岡大第二内科の教授に選ばれたと記されていました。

 九大第一内科を去る前に、研究室の若い先生たちに「一生のお願い」をしました。同種PBSCTを実施するには、まず健常者ドナーから大量のPBSCを採取して、それを患者さんに移植しなければなりません。ところが、そのPBSC採取の至適条件が分かっていませんでした。そこで、その至適条件を決定するための臨床試験の被験者を若い先生方にお願いしたのです。ありがたいことに、皆さん快く引き受けてくれました。

1994年2月 PBSC採取の至適条件を調べるために、私も被験者となり、アフェレーシスを受けました。
1994年2月 PBSC採取の至適条件を調べるために、私も被験者となり、アフェレーシスを受けました。

 9人の先生を3グループに分けて、骨髄から末梢血中に造血幹細胞を動員するために投与されるG-CSFの用量を3通りに振り分けて投与しました。どの用量になるかは“あみだくじ”で決めました。副作用の多くは予想したもので許容範囲でしたが、高用量のG-CSFを投与された一部の被験者は、発熱、感冒様症状が強く、予定していたアルバイトに行けなくなってしまったそうで、今でも申し訳ないことをしたと思っています。

 しかし、このときに決めた至適条件が、現在もほぼそのままで使用されており、感慨深いものがあります。ちなみに、私も被験者の1人で、若い先生たちと一緒にG-CSF投与とアフェレーシスを受けました。

岡山大赴任は“落下傘で不時着”の心境
他薦で九大教授に、研究環境を大幅改善

 1994年4月、50歳のときに岡山大第二内科に赴任した私は、「まだ明けやらぬ空の下、見知らぬ土地に落下傘で不時着した」心境でした。教授職という初めての仕事にも四苦八苦しました。岡山大でやるべきことは、造血幹細胞移植を実現することでした。特に九大で臨床応用を始めた同種PBSCTを確立したいと考えていました。しかし、岡山大二内は移植の実績が少なく、私一人では実現できません。そこで、仁保教授に無理を言って、米国留学を控えている豊嶋先生を招き、何とか移植を行なえる体制を築きました。豊嶋先生の渡米後には、竹中克斗先生(現・愛媛大学)に来てもらい、同種骨髄移植の代替法として同種PBSCTを定着させる道筋をつけることができました。

 移植を確立するために、常に研究を続けることが必要でした。このため「第二内科では、臨床をしながら研究ができる」ことが理解されるようになり、若い先生が次つぎと造血幹細胞移植の臨床と研究に参加するようになりました。そして岡山大第二内科は、中国四国地方で造血幹細胞移植において中心的役割を果たすようになっていきました。

 私は岡山に骨を埋めるつもりで仕事をしていました。しかし、同門が1500人を超える大きな内科教室のOBから「周囲は、先生がいつか九大に帰るのではないか、と思っている。本気で岡山にいるつもりなら、家を買うなどして、九州には帰らないという姿勢を示した方がいい」とアドバイスされ、自宅も購入しました。1996年には、日本骨髄移植研究会からグレードアップした日本造血細胞移植学会の記念すべき最初の総会会長を務めるというチャンスもいただきました。

 ところが、ある日突然、九大医学部教授会から「選考委員会で第一内科の後任教授に選ばれた」という連絡がありました。経緯は定かではありませんが、いつのまにか他薦により教授選候補となり、選ばれていたのです。青天の霹靂。「九大に帰って来い」という声が強くなる一方、岡山大二内の関係者(特に入局1、2年目の若い人たち)からは「なぜ戻るのか」と問いただされ、岡山大二内そして教室員の今後を考えると、どうすればいいのか深く悩み、本当に苦しみました。最終的には、「岡山大の定年が思ったより早く来たんだ」と自分に言い聞かせ、母校に帰る決心をしました。

 2001年4月に九大第一内科に赴任し、2003年から2年間は医学部長を併任しました。また2006年には第68回日本血液学会学術集会の会長を務め、2007年3月に退職しました。

 九大に戻るに当たり、私なりのミッションを考えました。最初の出戻りのときは九州に移植医療を根づかせることをミッションとしたので、今度の出戻りでは“Physician Scientist”を育てることをミッションにしようと考えました。そのためには、若い人たちが存分に効果的に仕事ができる環境を整えることを最優先にしました。

 第一内科には、血液、腫瘍、循環器、膠原病・免疫、感染症などの研究グループがあります。各研究グループの部屋には主任、助手や医員、大学院生がいて、研究グループごとに仕事をしていました。まず、この縦割りの垣根を物理的に取り払おうと考えました。教官のオフィスを新設し、そこに研究主任や副主任を集め、常に意見交換ができるようにしました。また「講師室」をつぶして広い実験室を作り、若い人たちが研究室の壁を超えて一緒に実験、研究できるようにしました。「古い体制をぶっ潰す」という、学生時代の闘争心が残っていたのかもしれません。

 九大を卒業後、金沢大、九大、岡山大、そして再び九大へと渡り歩き、それぞれの場所で私は新しいことを始めてきました。そして、常に良き仕事仲間に出会うことができました。こういう医師人生を送ることができたのは、「白血病を治す医師になりたい」という夢を描き、追い求めてきたからだろうと思います。

 あまり先を読まず、綿密に考えすぎず、楽観主義で夢を追い求める。血液学の道を進んでいる若い人たちには、こういう気持ちで、仕事に取り組んでほしいと思っています。そこそこの成功に甘んじることなく、そして人生のストーリーを初めから描きすぎることなく、困難も引き受けながら夢に向かって突き進むことを願っています。

九大第一内科血液研究室の同窓会(2014年、自宅にて)
九大第一内科血液研究室の同窓会(2014年、自宅にて)