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この人に聞くThe Experts

リサーチマインドを抱き続けた臨床と研究
赤芽球癆では世界最大のコホートを分析(前編)

澤田賢一(医療法人北武会 美しが丘病院 理事)

臨床や研究に長年取り組み、数々の功績を上げてきたエキスパートを紹介する「この人に聞く」のシリーズ第3回は、秋田大学元学長の澤田賢一氏にお話をうかがった。年間の新規患者発生率が100万人に0.31人という希少疾患である赤芽球癆。澤田氏は、この疾患の世界最大のコホート研究により、今も国内外から引用される文献を数多く著した。「少し腕の立つ普通の内科医」を目指した澤田氏が、血液内科医として世界的な業績を多く残すことになった道のりを語ってもらった。

澤田賢一氏(医療法人北武会 美しが丘病院 理事)

医療法人北武会美しが丘病院理事の澤田賢一氏

1952年北海道生まれ。76年4月北海道大学医学部卒業後、同大付属病院医員(研修医)。同年10月に伊達赤十字病院へ。78年10月に北大病院医員となり、以後、北見赤十字病院、北大第二内科研究生などを経て、86年3月に米国テネシー州のバンダービルト大学Research fellow。88年3月Research assistant professor。89年3月に北大第二内科研究生。同11月同科助手、94年同科講師、96年北海道大学大学院医学研究科分子病態制御学講座(第二内科)助教授。2002年1月に秋田大学医学部内科学第三講座教授に。12年同大医学部長、14年同大学長に就任。16年4月より現職。

 1976年に北海道大学医学部を卒業し、第二内科に入局、血液内科医となってからは臨床に携わりながら、一貫して赤芽球癆という希少疾患を対象に研究を続けてきました。研究を進めるに当たって必要となった造血幹細胞・造血前駆細胞の純化という技術を確立した一方で、厚生労働省の班研究で赤芽球癆のコホート研究を行い、この結果は世界に注目されることになりました。

感染症が出発点、卒後3年目に血液内科に転向
診療後の日々の実験でリサーチマインドが芽生える

 臨床医のスタートは感染症でした。3月に卒業してゆったり過ごしているうちに、ほとんどの講座が入局受付を締め切ってしまい、残っているのは第二内科だけでした。第二内科には、血液、膠原病、内分泌A・B、糖尿病、感染症、消化器、腎臓の8つのグループがあり、自由で学究的な雰囲気でした。同期が8人おり、どのグループに行くかは話し合いとくじ引きで決めることになりました。「少し腕の立つ普通の内科医になれればいい」と考えていた私は、将来の専門に対して特に思い入れもなく、「余ったところでいいよ」と待っており、その結果、感染症グループに入ることになりました。

 大学病院での半年間の研修ののち、伊達赤十字病院に2年間勤務しました。当時の院長は大西慎二先生で、北大二内出身の名医の一人です。当時は今と違い、いきなり20人ほどの患者さんの主治医となりました。消化器、循環器、神経、代謝、呼吸器など分野は多岐にわたり、重症の患者さんも少なくありません。当時は、新卒の医師にもいろいろな診療を任せてくれました。

 スキルス胃癌の患者さんを担当した時には病院に初めて中心静脈栄養を導入しました。現在の高カロリー輸液製剤はまだ販売されていない時でしたから5%グルコース液をベースにして自前で作製。もちろん、中心静脈カテーテルも自分で入れました。

 腹膜透析が必要になった時は、手技の学習から始めて必要な物品をそろえました。腹膜ボタンをつける時はさすがに緊張しました。今でしたら、専門医にお願いするか研修を受けて修了書でも頂かなければその実施は決して許してもらえなかったでしょう。本に書いてあることならやって当然、やれて当然と思っていました。

 ある意味、おおらかな時代でした。一からシステムを立ち上げる楽しさを味わったことで、その後の研究にも通ずるものが多かったと思います。手厚い指導はあるけれども自由度の少ない今の研修医を、時々、気の毒に思うこともあります。

 2年が経って大学に戻る頃、お誘いがあって血液グループに移ることになりました。私を入れて3人だけのグループでした。もともと研究をしようという意欲があまりなかった私は、大学では診療が終わればさっさと家に帰りたいと思っていました。ところが直属の先輩である桜間照喜先生は、診療後の午後5時過ぎから毎日研究をしていました。先輩より早く帰るわけにはいかず、実験を手伝えば少しでも早く帰れると思って手伝い始めたのが運の尽きです。敵もさるもの、浮いた時間分、さらに実験を追加するのです。結局、毎日少しずつ帰宅時間が遅くなりました。そんなある日、手を尽くしてあとはなす術もない患者さんが重体となり、院内で待機するなか、洗ったメスシリンダーの壁を水が一枚の紙のように流れ落ちるのを見て、ふと「今の臨床では無力だが、研究を通してやがては患者さんのためになれるかも知れない」と思いました。私にリサーチマインドが芽生え始めたのはこの頃です。

自治医大への2週間の国内留学で“針路”が決まる
赤芽球系前駆細胞の純化と無血清培地の作製に取り組む

 私が赤芽球癆の研究を始めたきっかけは、血液グループに入って最初に出会った患者さんが赤芽球癆だったことです。赤芽球癆は、白血球や血小板は正常なのに、赤芽球だけが欠損する不思議な病気です。ステロイドと蛋白同化ホルモンで治療していましたが、副作用が出るたびに減量・中止と再開を繰り返していました。

 そんな時に、教授の中川昌一先生(北大第二内科)が臨床講義を行うことになり、そのスライドの作成を手伝いました。そのとき初めて、造血幹細胞や赤芽球系前駆細胞の存在を知りました。そして、抱いた疑問は「赤芽球癆の患者さんには、はたして赤芽球系前駆細胞は残っているのか」でした。

 症例解析のためにはコロニー形成法という培養手技が必要でした。論文を読みながら見よう見まねでやってみました。白血球コロニーはできるのですが赤芽球コロニーがなかなかできません。それで自治医科大学造血発生部門で2週間指導をしていただきました。40数個の疑問のうちおよそ半分が1週間で氷解しました。そのとき残された疑問の多くは今も分かっていません。おかげで、戻ってきてすぐに赤芽球コロニーができました。

 この時の造血発生部門の教官は、三浦恭定教授を筆頭に、元吉和夫准教授、須田年生助教、小澤敬也助教でした。今から思えば、後に全員が教授になり、かつ、日本血液学会総会の会長を務めたわけですから凄い教室でした。早朝から深夜まで研究に明け暮れており、ここに2週間以上いたら過労死になると思いました。造血発生部門で受けた強烈な刺激がその後の私の針路を決めたと思います。

 この患者さんは「症例報告」として、私の初めての筆頭著者論文になりました(摘脾により寛解した赤芽球癆の1症例. 臨床血液 22:1955-1961, 1981)。活字になったことが嬉しくて、眠る前にベッドの中で何度この論文の別刷りを読み返したか分かりません。今、この論文を見直してみるとコロニー形成法のデータは必要ないと思います。でも当時はどうしても実験データを入れたかったのです。

 初めての論文執筆でしたから何でもかんでも重要に思えて取捨選択が大変でした。書き始めてから投稿するまで6カ月かかりましたが、その間、北見赤十字病院に出張し、先輩の今野孝彦先生からみっちり論文の書き方を指導していただきました。ある時、「日本語の症例報告はもう貴君一人で大丈夫です」と免許皆伝を頂きました。嬉しかった。後に英語で論文を書くようになりましたが、症例報告にしても研究論文にしてもその書き方の基本はこの日本語の症例報告で学んだと言っても過言ではないと思います。日本語ですからインパクトファクターは0(ゼロ)ですが、すべての出発点がこの論文にあるような気がします。

 この患者さんの病因解析を通して思ったことは、赤芽球癆の研究には造血幹・前駆細胞の純化法を確立することと、無血清培地を開発する必要があるということでした。前駆細胞を傷害するリンパ球などが混じっているとコロニーが形成されないため赤芽球系前駆細胞を純化する方法が必要でした。また、血清中のサイトカインなどの因子の影響も除かなくてはならず、それには無血清培地が必要になります。

 この2つのテーマを抱え、私は、ヒトの正常造血幹細胞・前駆細胞と赤芽球癆の前駆細胞の純化に取り組みました。学位論文では、赤芽球癆の症例数が少なく、小児の赤芽球癆であるダイアモンド・ブラックファン貧血を対象にしました。卒後9年目、中川昌一教授から留学を勧められ、行き先について須田年生先生に相談しました。「赤芽球癆の権威であるクランツ先生はどうですか」とご助言をいただいて打診したところ、「すぐ来い」ということになって1986年に米国テネシー州、ナッシュビルにあるバンダービルト大学血液学教室(Sanford. B. Krantz教授)に留学しました。

1986~89年バンダービルト大学留学中。サンフォード・クランツ研究室の先生宅でのパーティーにて。(一番左が澤田氏、一番右がクランツ氏)
1986~89年バンダービルト大学留学中。サンフォード・クランツ研究室の先生宅でのパーティーにて。(一番左が澤田氏、一番右がクランツ氏)